「まあ!」

 カウンターで窓の外の雨などぼんやり眺めていたマリノは、戻ってきたリヒャルトの姿を見て驚いて立ち上がった。1時間程水に漬けられていたかのようにびしょ濡れになっているリヒャルトは、雨水が滴り落ちるのを全く気にせずにいつもの穏やかだが心情の見えない顔でマリノに言った。

「ミューラーさん戻ってる?」
「ミュ,ミューラーさんって…さっき戻ってきて寝てるみたいだけど…」
「そう、よかった」
「ってちょっと! そのまま入らないでよ! 床が濡れちゃうじゃない!」
「わっ」

 マリノは大きなタオルを出すとバッとリヒャルトにかけて,体当たりをするように止めた。

「むー」
「ほら、ブーツと服を脱いで! 髪を拭いて! 乾いた服に着替えてからじゃないと部屋に入れないわよ!」
「うるさいなあ」
「身体が冷えきってるじゃない…。ずーっと外にいたの?」
「うん。そうだよ」
「もう、何やってるのよ。暖炉に火を入れてあげるからじっとしてなさい」
「火なんていいよう。ミューラーさんのとこがいい」
「はいはい、毎日毎日ミューラーさんってもう…。ミューラーさんはあっためてくれないわよ! ほら、火にあたって」
「……」

 突然黙ったので見ると,リヒャルトは大きな目をまばたかせながらマリノを見ていた。

「な…何?」
「君,おもしろい事言うねえ」
「は?」
「ミューラーさんがあっためて…だって。フフフ」

 マリノには何がツボに入ったのかまるでわからなかったが、リヒャルトはタオルに顔を埋め,床に転がってクスクス笑い出した。

『…ストームフィストのお店で見た傭兵の人たちも大概癖の強い人ばかりだったけど、こんなヘンな人見た事ないわ! 大丈夫なのかしら?』

 マリノはともかく毛布を出してきて生乾きの身体を覆った。グズグズの服を引取り,簡単な服を渡す。

「ほら、着替えもあげるから。これ着て」
「着たらミューラーさんの所へ行ってもいい?」
「そーいう問題じゃないでしょ」
「そういう問題だよ。僕はミューラーさんのいない暖くて幸せな所より,ミューラーさんがいる寒くて辛い所の方がいい」
「……」

 マリノにもその気持ちはわからないでもない。でも、想う事は幸せな事だが,それが全く返ってこなかったらただの地獄だと思う。マリノはベルクートの心はいまだはっきりわからないが、気持ちを無視して想い続ける事は多分できない。この少年はそういった怖れやためらいが丸でない。

「…なんかすごいわねえ。それだけのために、この雨の中ミューラーさんを探して外にいたの?」
「うん。朝目が覚めたらいなかったから」
「って、朝から!? 今朝は偵察に行くから早く出て行くって昨日言われたわよ!?」
「ミューラーさんそういう事全然僕に教えてくれないんだよ。ついてくるから」
「ついてくるくらいいいじゃないの」
「うっとおしいんだって」
「ちょっとひどいんじゃない?」
「ミューラーさんを悪く言うな」
「だって、こんな雨の中をフラフラ探しまわるくらい慕ってくるあなたを」
「僕はじっと待ってるのより探す方が好きなだけだよ。雨なんか最高だね。スゴく求めているのが晴れている日より強く感じるじゃない」
「……」
「君だってそうだろ」
「えっ?」

 リヒャルトの視線がふいにミューラーから自分に移った。ただそれだけの事なのにマリノは心臓がひっくり返るくらい驚いて、まっすぐこっちを見上げてくる目を見た。涙や苦労が人を育てると聞いた事がある。しかし、あまたの屍の荒野と血の海を渡ってきたらしい少年の目は、マリノが今まで見たどの瞳より、生まれて初めて泣き止んだときの赤ん坊のように澄んでいた。マリノはその目に、闘神祭で犯してしまった一生悔やみ続けるであろう罪をじいっと見られているような気がした。

「…私は…。探しているだけなんて耐えられないわ。愛してるって言っただけ愛されたい。あなたのようにはできない」
「ふうん。大変だね…」
「え?」

 リヒャルトはそう言い残して、暖炉の前に転がったままスウッと寝入ってしまった。取り残されたマリノは、ため息をついてまだ乾いていないリヒャルトの髪に触れた。

「……」

 その時,今までウンともスンとも言わなかった部屋の扉がバンと開いた。

「キャッ!!」
「………」
「ミュ、ミューラーさん!?」

 鎧もなにもないいかにも今まで寝ていたという格好であるにも関わらず、戸口で仁王立ちしているミューラーの全身から立ち上る不機嫌なオーラに当てられて,誰に教えられた訳でもないのにマリノの脳裏に「鬼」の一文字が浮かんだ。

「あ、あの…」
「…ごちゃごちゃうるせえ」
「あ! ご、ごめんなさい。うるさかったですよね」
「フン」

 ミューラーはリヒャルトをジロリと見ると,ずかずかと歩み寄って毛布ごと持ち上げた。

「あ、そ、そんなもう少し丁寧に」
「こいつはこうなるとちょっとやそっとじゃ起きねえんだよ」
「そういうことじゃなくて…」
「世話になったな」
「えっ」
「こいつの服とブーツは乾いたら俺たちの部屋に放っておいてくれ」
「え…はあ…」
「ったく…」

 ミューラーはブツブツいいながらリヒャルトを抱えて部屋に戻ってしまった。ぽつんと残されたマリノは,狐につままれたような気分で雑巾で濡れた床を拭いた。

『…多分恐い顔の人がちょっとだけ優しい事を言うとすごくいい人に見えるってだけの事よね…。というか、優しい事なんて言ってないけど…というか、いつから聞いてたのかしら? 起きてる時に来てあげればいいのに?』

 そう思ったとき,さっきのリヒャルトの瞳が思い出されてため息が出た。自分だって、他人から見たらあの少年と大差ない程道を外しているだろう。すればいいのに、なんて事は誰も言えない。
 少なくとも,リヒャルトは一言もそんな事は言わなかった。マリノにも,ミューラーにも、誰にも。そういうリヒャルトを拒絶しても否定はしないのがまたミューラーなのだろう。強くはないが染み込むような優しい雨の音が,静かにそうだそうだと言っているように聞こえた。


おしまい。