「ツヴァイクさん!! いいかげんにしてください!」
「ん?」

 しゃがみこんで城の壁画など調べていたツヴァイクは、腰に手を当てて仁王立ちしているマリノを見上げた。

「ああ、宿屋の」
「私はマリノです! 宿屋じゃありません!」
「わかったわかった。そのマリノ嬢が私に何の用だ」
「もうー、服洗濯するから出しておいて下さいって言ったじゃないですか」
「そんなことか。別にかまわんと言っただろう。大体何故君が私の服を洗濯しなければならんのだ」
「あなたが全然自分の事に構わないからです! 私が剥がしでもしなきゃ洗わないでしょう! ほんとにその服何日着てるんですか?」
「やれやれ」

 ツヴァイクはやっと立ち上がると、指でメガネを押しつつマリノに向き直った。

「人には生きるペースというものがある。君のペースに合わないからと言って糾弾される謂われはない」
「もう! へりくつばっかり言ってー! 誰かのペースとかじゃなくって、不潔だからです〜っ! 」
「……」

 ツヴァイクは何日も交わされて来たこの不毛なやり取りに心底面倒そうな顔をして黙った。ツヴァイクは大概の人間を黙らせるだけの知識と語彙と何より世の中から独立した心を持っていたが、それら全てがマリノには通用しない。この頼みもしないのに元気と労働をふりまわす宿屋の娘は、おおらかにザルのように何でも受け流しているように見えていざ相対すると付け入って逃げる隙がない。真っすぐな目を受け流しつつ、ツヴァイクは聞こえるようにため息をついた。

「君のそのおせっかいにはほとほと呆れるばかりだが、まあ、不潔と言えば事実不潔だし、私にも非がないことを認めない事もない」
「もう、なんでそんな言い方しかできないんですかー」
「洗えばいいんだろう、洗えば。大変面倒だし大きなお世話だが、それで君から解放されるなら安いものだ。」
「まあー、やっとわかっていただけまして? とってもうれしいですうー」

 ひきつりきった笑顔を浮かべるマリノを無視して、ツヴァイクは髪をかきあげた。

「そうとなったらさっさと終わらせよう。どこに出しておけばいい」
「あ、お風呂に入っててください。ミルーンちゃんにさしあたっての着替えと交換しておいてもらいますから」
「風呂にまで入らなくてはならんのか」
「普通の事ですよ! ついでにそのおヒゲもきれいにしたらいかがですか? さっぱりしすまよ?」

ぐずぐずブツブツ言っているツヴァイクの背中を押して、マリノはこの理屈に手足が生えたような学者に服を洗濯させて風呂にまで入らせると言う偉業への第一歩を踏み出した。




 ツヴァイクは正真正銘男風呂に浸かり、天井を見上げつつ息を吐いた。一日中屈んだりのび上がったりと不自然な体勢を強いられている身体が温かい湯の中でゆっくりと弛緩していく。油断した脳が、ぼんやりとビッキーとローレライが入っている女風呂へ入って各方面からお叱りの言葉を頂戴したときの事を思い出す。ツヴァイクは女体目当てでなくシンダルの情報を目的としていたのだからやましい所は何もないと主張したのだが言えば言う程糾弾された。ただ世俗の最大公約数の中にいないというだけで異端のレッテルを貼られ、あやふやな世間が定める常識というものからから外れたものとして責め立てられるなど中々に生きにくい世の中と最強に勝手な憂いを心の中で称えていると、カラリと風呂場の戸が開いてベルクートが入って来た。

「ん」
「おや、ツヴァイクさん。お邪魔します」
「……ああ」

 愛想なく答えたツヴァイクにベルクートは気にする様子もなく洗い場に腰掛け、筋肉で締まった身体を洗い始めた。ツヴァイクはベルクートの身体中にある大小の傷と似つかわしくない穏やかな表情を見るともなしに見た。遺跡を探索するとつきものなのが墓荒らしの類いと好事家の貴族に雇われたゴロツキで、会いたくも用もないのに絡まれる事がよくあったが、ベルクートを見ているとやはり本当に強い人間はああいったいかにも悪相な者たちではないと改めて思う。ああいった輩は人を排する為に剣を選ぶから人に切っ先を向けた時顔が歪むが、、ベルクートのような者は剣に選ばれるから顔に悪気がない。生まれて来た時の顔のまま、非常識な大剣を当たり前のように振り下ろす。
 視線に気付いたベルクートがツヴァイクの方を見た。

「…何か」
「ん…。いや、別に」

 ツヴァイクがそっぽを向くと,ベルクートは身体を流して湯に入って来た。両掌で顔をこすりながら、殺気など微塵もないのんびりした様子で剣士は言った。

「ここでツヴァイクさんにお会いする事はあまりありませんね。一日中調べものをしているようだし、もっと遅い時間に入るのですか?」
「滅多に入らんだけだよ」
「ああ、そうなんですか」
「マリノ嬢に不潔だなんだとゴリ押しされなければ今日だって入ってない。服も取り上げられるし全く予定がメチャクチャだ」
「服?」
「洗濯してくださるんだそうだ」
「ああ、あれが…」
「ん?」
「私も、洗濯するから服出してくれと言われまして。ありがたくお願いしたのです。」
「ありがたくって…」
「私は自分の事をよく忘れてしまうので…。マリノさんが気をつけて下さっているから人として形を保っているような有様で」
「服を洗濯するしない位で人間の形どうこう言う程の事か。大体だな」
「はい」
「君は、あの娘がうるさくないのか。人の生活になんやかやと口を出して来て、何か言えばダメなものはダメの一点張りで議論にも何もならない。綺麗好きがスッキリと生きようとするのは悪い事ではないが、それを人に押し付けるのは如何なものか。いくらつれあいでも…。いや、私だったらつれあいだからこそそんなもの我慢ならない」
「つれあい?」
「君たちの事だ」
「え…ええっ?」
「違うのか」
「そんな…。もったいない事です。私などが、そんな…」

 大きな図体で赤くなって照れるベルクートをツヴァイクは斜めに見つつため息をついた。

「…まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、私はそのような考え方なのだと君からも彼女に言ってくれないか。君の言う事なら彼女も聞くだろう」
「私の言う事を? 何故ですか?」
「……さああ、何故だろうな」
「はあ…。でも、ツヴァイクさん」
「何だ」
「あなたは心の中に決めた事がこの砦の誰よりもはっきり見えている人です」
「何?」
「だから、本当に納得のいかないことだったら絶対言う事を聞かない人だと思います」
「…」
「あなたが、マリノさんの言う事を聞いてここにいるのは、あなたがその方がいいと思ったからだと思います」
「ほほう」

 ツヴァイクは可愛げなく鼻で笑って言った。

「フン、よく躾けられたものだな」
「……」

 ベルクートは少し困ったように笑った。ツヴァイクは面白くなさそうに目をそらした。大概他人にああしろこうしろと一方的に言って来る輩は自分にとっての利害が絡んでいる。ツヴァイクの理屈はそう言った人間の隙につけこんで潰すのは得意だったが、マリノや、ここの王子のようなまっすぐな欲のない目に対しては何の効力もない。わかっているだけに、ずっと言いたいだけ言われるのも面白くない。ちょっと癪で、憎まれ口を叩いてみた。

「…やれやれ。剣豪とまでうたわれた男が、あんな何の変哲もない娘の言いなりとは。はい、はいと言っているうちに将来を潰してしまうんじゃないのか」
「はあ。そうなったら、どんなにいいでしょう」
「なに?」
「何の変哲もない暮らしが私の夢だったので」
「……」
「あ、その顔です」
「ん?」
「あなたの服を抱えていたときの、マリノさんの顔」

 ニコニコ笑うベルクートに、ツヴァイクは湯の中でがっくりと脱力した。




 探索の事で用があり、ツヴァイクを探して食堂まで来たローレライは、見慣れぬ男が一人テーブルについて茶を飲みながらテイラーの新聞など読んでいるのを見つけた。最初王子が連れて来た新入りかと思ったが、変わり果てた目的の男と気付いて仰天した。

「ツヴァイク!?」
「ん?」
「ど、どうしたんだ、なにがあったんだ」
「……風呂に入ってひげを剃って髪を後ろに撫で付けて服を変えただけだ」

 メガネの奥からじろりと睨まれて、その目つきからやっとツヴァイクらしさがうかがえて、何故かローレライは少し安心した。

「…全く、なんだというんだ。会う人間がいちいちそういう反応をする。面倒でかなわない」

 ぼやいているツヴァイクをよそに、たったそれだけの事で人間の印象とはこうも変わるのか、とローレライは感心してこの口の悪い男を見た。白い清潔なシャツがなかなかに似合っていて、黙っていれば理知的で思慮深い涼やかな学者に見える。
 無遠慮にジロジロ見て来るローレライをまた睨んで、ツヴァイクはため息をついた。

「ああ、世間というものは面倒臭い。主張を押せばわがままと言われ、面倒だからと引けばつけこまれる。そもそも私はこんな所にいること自体向いていないのだ」
「…ツヴァイク」
「なんだ」
「お前、本当に何があったんだ?」
「何が」
「私は、お前はそんな事すらも自覚していない男だと思っていたんだが。少しは世間というものを知ったのだな」
「……」

 ツヴァイクはマリノにどんなに言われても、二度と言う事は聞くまいと心に決めた。