「ゲオルグさん」

 呼ばれて向くと、星空に包まれた城を背にマリノがこちらに走って来ていた。ゲオルグは笑みを漏らして答えた。

「どうした。こんな時間に。眠れないのか?」
「うーん、まあ、そんな所です」

 マリノは人好きがする笑顔を向けてゲオルグの隣に立ち、夜の風を吸い込んだ。

「ああ…。ここは畑から釣り場の桟橋まで、全部見えるんですね。気持いいなあ」
「そうだな。湖からの風が全て来て…俺はここがこの城で一番好きなんだ」
「そうなんですか」
「ああ」

 そう言ってゲオルグは遠くを見るように顎を上げた。マリノの方からは眼帯が覆って表情が見えない。

「ゲオルグさんはどうしたんですか?」
「ん?」
「眠れないんですか」
「…。まあ、そんなところか」
「ゲオルグさんみたいに強い人でも…。眠れないくらい気にかかる事ってあるんですか?」
「そりゃあ、あるさ」
「本当に?」
「人をなんだと思ってるんだ」
「ふふ、ごめんなさい」
「フッ」

 ゲオルグは苦笑してマリノを見た。

「どうした。何か聞いてほしいことがあるなら聞いてやるぞ」
「えっ」
「俺は口の堅さではファレナでも一、二を争う男だ。その辺は信用してもいい」
「自分で言いますか?」
「本当の事だからな」
「あはは。…あの、ゲオルグさん」
「なんだ」
「私ってそんなに何か思う所があるように見えますか?」
「そんなことはない」
「そうですか。よかった…」
「ないように見える人間こそ、心に澱がたまっているものなんじゃないか」
「……」

 マリノがこちらを見た。月の頼りない光の中であってもマリノの青い瞳にははっきりとした意志が見える。ゲオルグはややまぶしそうに目を細めた。

「あの、ゲオルグさん」
「なんだ」
「私好きな人がいるんですけど。…ご存知だと思いますけど」
「ああ、よーく存じ上げている」
「…もう! …それでその」
「うん」
「…強い人って、何を考えているんでしょう」
「ん?」
「この軍の人たちは皆強い人で…。沢山の人たちの為に盾になって戦う事をいとわない人たちばかりで…。すごく、すごく立派な事だとは思うんです。でも…」
「……」
「私…。私やっぱり、自分の命と…たった一人の命のことしか考えられません…。最初ここに来る時は、私にできることがあるならって思っていたけど…。なんか思い上がりだったかなって…」
「マリノ」
「強いと、そんな風に思わないんでしょうか。何人分も強いと、心も強くなるんでしょうか」

 ゲオルグはマリノの視線を受け止めながら、様々な人間の事を思った。一瞬沸き上がった思い出の中の人々は、大半がもういない。泡のように消えたその余韻を胸に、瞳を閉じて言った。

「…そうだな。まあ…、お前の想い人はその辺りが人並みはずれているからな…。不安にもなるだろう」
「……」
「確かに、俺が強いと思った人間は心も強かった。自分の命を生きるためだけでなく、願いの為に燃やす事をいとわずに…。ただ、マリノ。お前は思い違いをしている」
「えっ?」
「どんなに強い人間だって、会った事もない沢山の人間のことなんて分からないさ。強ければ強い程、戦えば戦う程、命の際まで行った人間程、心の中で純粋に思い描けるのはほんの一握りなんだ。沢山の人間はその相伴にあずかってるにすぎん。平和も、もちろん混乱も」
「え…」
「俺は、多くのものを見て来た。だからもう、誰かのもたらした平和に縋って生きて行く事ができない。だから戦う。世の中の平和を疑わず、日々の暮らしを全うして行く事は絶対悪い事ではない。ただ、必ず翻弄される時が来る。どちらを選ぶか、それだけのことだ。あまたの人間のそうした都合がつづら折りになって世界はできあがっている。ただ、マリノ」
「はい」
「お前の想い人は、外側が頑丈な分そのつづら折りから外れた所にいるようだ。心の中が不完全なままだ。あれではどちらも選べないだろう。だから」

 ゲオルグの瞳がマリノの大きな瞳を見た。マリノはドキッとして少しだけ身体を固くした。

「お前があいつの心を繋いでやれ。それは戦いも何も知らないお前じゃないとできない事だ。それは俺やあいつがが100人、200人を打ち倒す事なんかより、遥かに強い生きる理由だ。何も恥じる事はない。それでいいんだ」
「ゲオルグさん」
「なあに、この城の連中だって…実のところ王子殿下だって、似たり寄ったりさ。だからこんなに人が集まって来るんだ」

 ゲオルグはそびえる城を仰ぎ見た。その横顔を見ながら、マリノは何となく言った。

「ゲオルグさんの、心を繋いでいる人がいるんですか?」
「…ん?」
「ゲオルグさんの強さには…理由があるんですか?」
「……」

 夜の風がゲオルグの髪を揺らした。湖と、かすかな花の香りがあたりに満ちた。

「ああ」
「えっ」
「いるよ。全てを捧げようと思った女が」
「え…」
「…いなくならないとわからないものさ」
「……」
「んっ?」

 マリノは胸が一杯になって、たまらずゲオルグの大きな身体を抱き締めた。少し驚いた後、ゲオルグは微笑んでマリノの頭を撫でた。

「何も恥じる事はない。お前の思うままにしろ、マリノ。必ずそれを必要とする人間がいるから」
「ゲオルグさん」
「少なくともあいつは、自分も知らないうちにお前を待っているよ。ひとりの、人間になるために」

 ゲオルグは、ただのひとりの娘の震える肩を抱いて城を見ていた。