「うーん」

 夜、宿を閉めようかという頃、マリノは肩を掴んで頭をコキコキと左右に振った。カウンターの前を通りがかったベルクートが気遣わしげに言った。

「どうしたんですか?」
「あ、ベルクートさん。うーん、ちょっと肩がこったような…。ヘンな力でも入れたかしら?」
「朝から晩まで働いているからですよ。大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。っていうか、ベルクートさんにそう言われると何か恐縮です…って、えっ?」
「座って下さい」
「え、は、はあ…」

 ベルクートはマリノにカウンターの椅子に座らせて後ろに立った。大きな手を両肩に置かれて、マリノはビックリして後ろを見上げた。

「ベルクートさん?」
「ああ…。やっぱりこってますね。マリノさん、前を向いて、肩の力を抜いて下さい」
「え、ええー…」

 マリノはホワホワした心持ちで前を向いた。

『ベルクートさんだって疲れてるのに、私を労ってくれて本当に優しいなあ。うふふ…って、えっ?』

 ぐ り っ 。

「痛ーーーー!!」
「えっ!?」
「ベッ、ベルクートさん! 痛い! 痛い痛いいたいですーーーっ!」

 ベルクートにしてみれば軽ーい力を入れただけなのだが、マリノには親指の第一関節までめり込まされたような衝撃があった。半泣きのマリノに、ベルクートは慌てて肩を揉む指の力を落とした。

「すすみません! このくらいで…」
「うーっ、うーっ、あ、あのもう少し弱くても…。あ、そのくらいで…」

 ようやく人心地ついて、マリノはホッとしてベルクートの手に肩を委ねた。ベルクートは揉んでいるというより指が触れている面を左右に移動させているだけのような微妙な力加減に戸惑っていた。

『…なんだか…これは…』
「はー…。とっても気持いいです…」
『……』
「あ、もう少し上を…」
『……別に』
「ふふ、私ったら甘えてしまってごめんなさい」
『……やましい事をしているわけでは』

 …ないのだが、全く安心しきっているマリノを見ていたら耳から頬にかけてぼーっと熱くなってきた。別に女性を知らないわけではないし、愛情のない所謂行きずりのやましいことも経験があるが、ベルクートはマリノのこの無防備さに少しだけ困る事があった。マリノの油断が自分の野暮天な気性ゆえの事だと気付いていないベルクートはムズムズするような理解不能な感覚を持て余しながらマリノの肩を揉んだ。

「そうだ!」
「うわっ!」

 突然上がった声に必要以上に仰天したベルクートをマリノは不思議そうに見た。

「ベルクートさん?」
「あ、は、いやすみません…」
「?? あ、あの私もういいです。大丈夫です。お返しに私がベルクートさんの肩揉みします」
「え、ええっ?」
「だってベルクートさんの方が今日は大変だったじゃないですか。私ね、肩揉むの上手だっておじさんにいつも言われてたんですよ」

 そういうとマリノはさっさと立ち上がってベルクートを座らせた。マリノはあまり見ることのないベルクートのつむじを嬉しそうに見ながら言った。

「上着脱いで下さいな」
「いや、あの…」

 自分の何倍もあるワイバーンに一歩も引かないベルクートが頭二つくらい小さなマリノの促すままに上着を剥かれ肩をガッと掴まれた。

「本当に、カイルさんとかゲオルグさんとかゼガイさん…は特別ですけど、ベルクートさんも、皆身体大きいですよね〜。何食べたらこんなに大きくなるんですか?」
「はあ、すみません」
「あはは、何謝ってるんですか? …わあ!」
「ど、どうしました?」
「か、固ーい! これ、こってるのかしら? ふつうこってるのって表面じゃなくてちょっと中くらいなんですけど、全部カチカチだわ!」
「はあ」
「筋肉とかなのかしら、すごいなあ」

 肩から背中にかけてなでまわされて何故か叫び出しそうになるのを喉の奥でこらえて、ベルクートは逃げるように立ち上がろうとした。が、やはり押さえ込まれた。

「あん、まだ何もしてないですってば! うーん、でもこう固くっちゃツボがわからないわ〜」
「〜〜〜」

 一生懸命揉んでくれるマリノには悪いが、こるとかそういう痛みの次元を越えている身体にはあまり意味がないようでくすぐったいだけだったが、ベルクートは苦笑してされるがままになった。他愛無い話をしながら世話を焼いてくれる人に背中を預けていることの幸せを噛み締めた。
 先ほど泡のように浮かんだ心持ちを忘れ、すっかり油断して目など閉じてマリノの手に肩を委ねていたベルクートはだんだんマリノの言葉が少なくなって来ている事に気付かなかった。

「………」
「えっ」

 ふわっと柔らかい腕に首を抱かれている事をやっと理解した頃には、マリノはとうに自分のもとを離れパーッと走り去っていた。ベルクートは立ち上がった時に倒れた椅子にも気付かずにボーッと立ち尽くし、思い出したように肩を押さえた。