ファレナの王子,カイはこの本拠地を渡る風を受けながら何思うでもなくホテホテと歩いていた。「少しの間時間がありますからゆっくりしてください」と軍師様(つい心の中で様とつけたくなる)に言われたものの、生き生きと働く人間が闊歩するこの城ではそれも結構気まずい。どうしたものかと歩いていると、スバルの釣り場の桟橋でのんびりと釣り糸を垂れている広い背中が目に留まった。

「…ベルクート?」

 剣も鎧も身に着けていないベルクートが釣りをしている。カイは好奇心が沸き上がって、気づいた時には駆け出していた。




「あ」

 全く油断しきっていたベルクートは、カイの姿を見つけて狼狽して立ち上がった。

「こ、こんな姿で、ご無礼を、王子」
「いいよいいよ。釣れる?」
「いえ、お恥ずかしながら、あまり…」
「そりゃそうだよ。スバルに舟を借りたらいいのに」
「そう言われましたが、いつ呼び出しがあるかわかりませんから」
「真面目だなあ、ベルクートは」
「は、恐縮です」
「ふふっ。剣は、スバルに?」
「はい。万一落ちたらと言われ、鎧も」
「まあ、ベルクートは自分が落ちても剣は落とさないと思うけどね」
「は、はあ」
「ははは」
「……」

 カイに促されるまま釣り糸を垂れたベルクートは横から見ても何か恐縮しているように見えた。カイは苦笑しながら横に座って、適当に話を振った。

「どうしたの、突然釣りなんて」
「は、その…。マリノさんが」
「マリノさん?」
「剣ばかり振っていないで、たまには違う事をしてみたらどうかと」
「へええ〜、で、あそこ(宿)からふとここが見えたと」
「はい」
「ふふふ」
「なんですか?」
「ベルクートに剣以外の事考えろなんて言えるの、きっとファレナの中でもマリノさん位しかいないよね」
「そうですか?」
「そうだよ。誰だって君を見たら、剣の技の方に目がいくだろう。僕だって君の本体が剣の方なんじゃないかって思う時があるくらいだ」
「お、王子?」
「冗談だよ」
「はあ」
「とにかくマリノさんはさ、君の外側だけでなく、内側まで心配してくれているからそんな事が言えるんだ」
「……」
「そういう人は大事にしないと」
「…そうですね。本当に、善い人です。今だにあの時の…闘神祭の事を気に病んで」
「ああ…」
「かわいそうに。宿屋のおかみさんたちを傷つけると脅されて、私に毒を盛って…。どんなに心を痛めた事でしょう。マリノさんは何も悪くないのに」
「ん?」

 …ものすごく色々なことが引っかかって、カイは目をパチパチと瞬かせながらベルクートを見た。ベルクートは物思う表情で光る水面を見ている。

「王子」
「な、ななな何」
「このような事は…胸の内に秘めるべき事で、まして王子の耳をこんな事で汚すなどあってはならない事ですが…。私などの為にこのように会話の場を持って下さる王子のお心に甘えて聞いていただきたい事があるのです」
「なっ、なに?」

 カイは今更言わぬ、と言われたら首を締めてでも聞き出す勢いで身を乗り出した。それに気付かず、ベルクートは呟くように言った。

「闘神祭が終わった後…。正直,私は途方に暮れました。闘技奴隷を解放する事への気持ちが揺らいだ訳ではありませんが、行く当てもなく、手だてもなく…。今思えば特に深い考えがあった訳ではなかったのですから当然なのですが、いきなり目的を失って身動きが取れなくなってしまったのです」

 ぼんやりと揺れる浮きのようにあてもなくさまよう言葉を探るように集めて、ベルクートはぽつぽつとカイに語った。

「そんな時マリノさんがストームフィストを離れるから、ついていってくれないかと宿屋のおかみさんに頼まれました。私は、マリノさんが私に罪悪感を持っている事を知っていましたが、それを引き受けました。そのときの心に穴が空いたような私には、マリノさんの明るさと…健康な心が必要だったのです。私は、マリノさんと離れがたい気持ちになっていました」
「は…」
「マリノさんが心を痛めると知っていて、私は彼女の側から離れず温かい心をもらって…今日まで来ました。私は」

 その時水面が揺れ、大きな影が静かに優雅にカイたちの足下を泳いで行った。

「と、…ビャクレン殿ですね。これは増々魚影が遠のきましたね…」
「ベルクート」
「はい。あ…、つまらない話をしました。お忘れくださ…」
「や、いや、そうじゃなくて、ええとー」
「何でしょう」
「……」

 何でしょう、とこっちが言いたいと言うのを飲み込んで、カイはこの朴念仁の顔をしげしげと見た。マリノがギゼルからの圧力によって毒を盛ったのは事実だが、それだけではない事はカイにだってわかる。いや、あの事に関わった全員が、マリノが何に思い余ってあんな事をしたかわかっている。なのに何故このベルクートだけわからないのだろう。

「マリノさんに、その事を言ったの」
「…言っていません。…できません、そんなことは」
「何故」
「マリノさんは、私を善良な人間だと思っています、から」
「善良って」
「…何でも許す、寛容な、無条件で人を守る優しい男だと」
「はあ」

 そのとおりじゃないか、とカイは思ったが,ベルクートにどう言えばいいか分からず言葉が出なかった。

「…私は、自分がどんな人間かなんて考えた事もなかった。まして人からどう見えるかなど見当もつきません。でも、今はそのマリノさんの考えている私を裏切る事が怖いのです」
「……」
「申し訳ありません。本当に、つまらない話を…。お忘れください」
「ベルクート」
「ここを出て、剣を佩けばいつもの私に戻ります。お気になさらずに」
「ちがう」
「王子」
「剣が本体じゃないかなんて冗談を言ったけど、違う。ここにいる剣も鎧もない君だって君なんだ。大体マリノさんは剣のない君を心配してたじゃないか。ここにいる君こそを彼女は」
「えっ」

 うっかり言いそうになって、カイは両手で口を抑えた。

『く〜〜、この一言を言ってしまえば全部解決するんだけどな〜〜』
「どうかなさいましたか、王子」
「え、いやいやいや」

 わざとらしく咳払いしてごまかすと、カイはベルクートに向き直った。

「ベルクート、君はどうしたいんだい」
「私が?」
「君がどんな人間かとか、誰からどう見えるとか、そんな事全く関係なしに君はどうありたいんだ。剣に逃げる事は許さない。昨日までの事なんてどうでもいい。今の君は、今日からどうありたいんだ」
「王子」
「そこまで言われても何か罪悪感があるなら、心にひっかかることがあるなら君が剣を捧げた僕が全てを許す」
「それは」
「僕は皆がいなければなにもできない、国から何か与えられるでもない力のない王子だけど、それくらいの事はできるんだよ、ベルクート」
「…王子」
「言いたくないなら思うだけでいい。マリノさんと、君はどうありたいんだ」
「……」

 ベルクートは目をまばたかせてカイを見ていた。カイの言葉はベルクートの心を塞いでいたものを確かに動かした。そこから吹き出したものが、ベルクートの顔を赤く染めた。

「ふむ」

 カイは満足げに笑うと,立ち上がってベルクートを見下ろして言った。

「今思いついた事がはっきり形になるまでここから出たらダメ」
「おっ、王子!?」
「今日は城から出ないから、何も気にしなくてもいいよ。スバルにも言っておくから。じゃ!」
「えっ、あの…」

 桟橋で半端に腰を上げたベルクートを残して,カイはさっさと城に引き上げてしまった。




「あら」

 マリノは宿の扉を開けて入って来たカイを見て嬉しそうに笑いかけた。

「いらっしゃい、王子様! さあおかけになって、お茶をいれます」
「ありがとう。ところでマリノさん」
「はいなんでしょう」
「釣り場でベルクートに会ったよ」
「ああ、朝からいるんですよ。結構気に入ったんでしょうか」
「ああうん。多分彼あそこから自分からは動けないから後で迎えに行ってあげてよ、マリノさん」
「えっ?」
「ふふふ」

 訳が分からず目をまばたかせているマリノに、カイはニコニコと笑いかけた。