光の中へ
「…と」
宿の扉を開いたベルクートを出迎えたのは、いつもの元気な挨拶ではなく静かな寝息だった。音を立てないように扉を閉め、マリノが両腕を枕に伏して眠っているカウンターに歩み寄った。
「……」
奥の椅子に膝掛けが放ってあるのを見つけて、それをそっとマリノの背にかけた。
「…うーん…」
ベルクートは目を瞬かせたが、マリノは何事もなくムニャムニャ言いながら眠る体勢に戻ったのでホッとしながら膝掛けが身体を覆うように直した。
もともと何か用事があった訳でもなし、出ようかと思ったが、幸せな寝息に何か離れがたい物を感じてやや立ち尽くした後、長剣を外してカウンターの前にある長椅子に腰を下ろした。
「…」
「…」
隅から隅まで磨き上げられた清潔な室内の一角に、そろそろ傾きかけた日の光が差してわだかまっている。反射したそれがマリノの体の輪郭を温かく縁取っていた。
ベルクートは2、3回瞬いたのち、目を細めた。マリノはこの砦を心から信じていて、身の危険を疑う事がない。明日を信じて疑わない日々に真っ当に参加して、それに自分のできることで応えている。マリノにとって当たり前のその営みが、ベルクートにはとても眩しく、誇らしい。まるで、夢のような。
「……」
ベルクートは頭を振ったのち、剣の先を脚と脚の間に置き、柄を肩に置いて、寄りかかるように抱えた。鞘に覆われた刀身を掴む指がやや震えているのをそのままにマリノをじっと見た。
こういう感じに襲われる事がたまにある。こういう、夢のような温かい時間に息が止まるような気持ちになる事が。この温かい情景の中、足の下が突然真っ暗に抜けてどこまでもどこまでも落ちて行くような気分。自分にしか見えない、自分と世界とのギャップに心が引きずり込まれる。
ベルクートは戦いの防御は知っていても、こういう気持ちから自分を守る方法を全く知らなかった。震える手に構わずに、表情を変えず、澄んだ青い目をただマリノに向けていた。
「…ん」
剣が鞘に当たってカチリと鳴ったささやかな音にふと目が覚めたマリノは、顔を上げてしばしボンヤリと目を瞬かせていたが、ベルクートに気付いて慌てて立ち上がった。
「ベルクートさん! や、やだ、起こしてくれればよかったのに、もう…」
マリノは照れ隠しにやや強い言い方などしていたが、妙な気配に気付いてベルクートを見た。立ち上がり、カウンターを回って近寄って来るマリノを、ベルクートの青い瞳だけが追った。
「ベルクートさん」
ベルクートは答えず、ただ手を震わせていた。マリノは何の表情もなく見つめて来る目を見返しながら、ためらいがちにその手に自分の手を重ねた。
「……は」
ベルクートは呼吸するのを思い出したように盛大に息を吐き出した。大きな手の甲で、垂れ下がった髪をよけながら額に滲んでいた汗を拭った。心配げに見上げて来るマリノに気付き、弱々しく微笑む。
「マリノさん…」
「だ、大丈夫ですか、何か…」
「何でもありません、本当に…。少し、ぼうっとしてしまっただけです」
ベルクートは何かに安堵したように目を伏せた。しばし惚けたように見とれていたマリノは、振り切るように頭を振ってベルクートの頬に手の甲を当てた。
「何でもないように見えないわ。顔色が…」
ベルクートは、温かく柔らかい手の感触を受け入れながら目を閉じた。心配げな気配を感じたが、それがまた心地よかった。
「……」
「きゃ」
ベルクートは頬に当てられたマリノの手を包むように自分の手を置き、甘えるように頬を押し付けた。驚いてにっちもさっちもいかないマリノに苦笑しながら、ベルクートはその手を握ったままおろして、小さい肩に頭を寄せた。
「ひゃ!」
「すみません、マリノさん…。少しだけこのまま…」
「ベルクートさん」
「…温かい」
「えっ」
「…とても」
大きな身体を曲げてもたれてくるベルクートを受け止めながら、マリノはおずおずと自分の手を握ったまま無防備に投げ出されている大きな手に、反対の手を重ねた。傷の跡を幾つも飲み込んだことを思わせる荒れた長い指をなぞりながら、言うべき事を探すように目をさまよわせたのち、おずおずと声を出した。
「…べ、ベルクートさん」
「…すみません、取り乱してしまって…」
「え?」
ぼんやりと言う声に向くと、ベルクートは目を閉じたままぼそぼそと言った。
「たまにこういうことが…。大丈夫です。すぐにおさまりますので」
「そんな…。そうだったんですか? 今まで、そんなこと一言も」
「今まではこういうことは当たり前だったので、何も」
「えっ?」
「…ここに来てから、当たり前ではなくなったので、それで」
「それは…」
ベルクートはマリノの不安げな気配を感じて、言葉を止めた。マリノはもどかしそうに言った。
「ベルクートさん、そんなこと、当たり前のように言わないでください。全然大丈夫なように見えなかったわ」
「大丈夫だと思えば大丈夫です。大概の事は」
「そんなことは、ありえません!」
ベルクートはマリノの肩に甘えたまま瞳を向けた。悔しそうに唇を噛むマリノの瞳を、ベルクートは眩しいなと思った。
ゆっくりと起き上がったベルクートから目を逸らせて、マリノは呟くように言った。
「出過ぎた事を言ってごめんなさい…。わたし、ベルクートさんの事何も知らないのに」
「知らなくて当たり前です。マリノさんが謝ることなど何もありませんよ」
「そういうことじゃありません」
ベルクートの目を見ないまま、今度はマリノが額を彼の肩に寄せ、やるせないような声を出した。
「ああもう」
ベルクートは自分の肩に額を預けるマリノを見た。不思議な感覚だった。間違いなくマリノは落ち込んでいるのに、何故か心に何かが湧き立つような感じがする。あんなに張っていた肩から力が抜け、マリノが触れているあたりから温かいものが広がっていく。さっき、マリノがいた光の中に自分もいるような気持ちになる。
手に力が入ると、中のマリノの手がぴくりと反応した。
「ごめんなさい、ベルクートさん。なんでもないんです。…って、私あやまってばっかりですね」
「マリノさん」
「えっ?」
マリノが無意識に引こうとしようとした手をしっかりと掴み、こちらに引き倒す。ベルクートの大きな身体の中のマリノはいかにも小動物のように頼りない。
人懐こい空色の瞳は驚きながら、今なお信じて何も疑っていない。
「あ」
「きゃ!」
ごん。
当たり前だがベルクートの手に引かれたマリノは、彼が抱えていた長剣に額から突っ込んだ。
「痛ーーー!!」
「うわっ、す、すみませんマリノさん!」
慌てて脚の間から剣をどかし、額を抑えて呻いているマリノの肩を掴んだ。
「大丈夫、です、か…」
「うーっ、うーっ」
「すみません、あの…」
「…なんで」
「えっ?」
「なんでこうなるの…。折角そんな感じだったのに…。うう」
「は…」
半泣きのマリノに上目遣いで見上げられて、ベルクートは恐縮して目線を落とした。自分が何をしているのかわからない。
うつむいたまま考えていると、マリノがやや恨みがましい声で言った。
「もう、すぐそうやって一人になるんですから」
「マリノさん」
「私、ベルクートさんが……なんです」
「は、今、何と」
肝心な所が呼吸程度の大きさで発されたので聞き返すと、みるみる真っ赤になったマリノに割合強く言い返された。
「〜〜いいんですそんなことは! たんこぶがある時は特に!」
「はあ」
「あの、だから、私がベルクートさんを…そういうことだから、一人にならないでほしいんです。うっとおしいとか、面倒臭いとか、いっそ思ってくれてもいいです。わたし、私は言う事しかできないし」
「そんな…。私がマリノさんをそのように思う事など、ありえません。マリノさんはいつだって私のためを思って」
マリノの切なそうな目を見つけて、ベルクートは黙った。結局いつもこうなってしまう。
マリノに出会うまで、太陽だけでなく、心の中にも光があるのだということを、自分は闇の中に生きていたことを知らなかった。マリノを入り口に、この砦の中でその光を感じたと、その光を掴んだような気がしたなどとどう言えばわかってもらえるだろうか。言葉の意味だけでなく、気持ちまで感じてもらえるだろうか。
それがわからないままモタモタしているうちに、いつもマリノと何かがすれ違う。わかるような、わからないような空気に包まれる。こんなにも日々自分はこの娘に救い上げられているというのに。
「……」
ベルクートはそう考えていたら少し寂しくなったので、マリノの方へ近寄った。マリノはじっとこちらを見ていたが、小さく息をつき目を伏せてこちらによりかかってきた。腕を回せば全て収まってしまう小さな身体を感じながら、いつの間にか暗くなっていた窓の外に浮かんだ月を見ていた。