「おや」

 サイアリーズが砦を一望できるテラスから何を見るともなしに見下ろしていると、大きなカゴを持ったマリノが目に止まった。健気に朝から晩まで働く彼女に微笑んでいると、砦と彼女いる離れの塔を繋ぐ吊り橋を、金髪の女王騎士が渡っていくのが見えた。

「っ、あいつは!」

 サイアリーズは舌打ちして階段に向かった。




「よいしょっと」

 マリノは洗ったばかりのシーツが沢山入ったカゴをドン、と床に下ろすと、この離れの一角にマルーンがもののついでに作ってくれた物干代にロープを張った。

「さて」

 さざめくセラス湖とどこまでも広がる青い空に向かってパン、とシーツを広げる。洗濯物の清潔な香りと湖を渡る風が気持ちよくて、手際よくシーツをロープに留めていくうちに、口から歌がこぼれる。

「…ラ、ララ、ラ」

 マリノは考えてもどうにもならない事にとらわれた心を少しだけ浮かせる事ができるから、仕事が好きだった。ただじっとしていると状況が状況だけによくない事ばかり考えてしまうので、できるだけ身体を動かし、人と話す事を心掛けていた。そんな前向きな、仕事が終わればあたたかくねぎらっててくれるマリノを悪く思う者がいるはずもない。

「おっ」
「あ」

 風がマリノの歌を本拠地中に運ぶ。なんということのない歌が、心を落ち着け、励ましていく。笑みさえ浮かべている警護の兵士達を横目に、多分この本拠地の中で五本の指に入る剣士のベルクートの心だけがさざめいていた。

「……」

 広い廊下を抜け立派な入り口を出ると、空と湖と光が一気に視界に広がり、風に揺れる吊り橋の向こうにマリノの姿が見えた。そして、眩しそうに目を細めるベルクートの青い瞳にマリノのもとに歩み寄っていく黒い長身の男が映った。

「やあ!」
「えっ?」

 親し気な声にマリノが向くと、多分この砦の主に最も近い立場の1人が機嫌よく笑っていた。

「 あっ、あらっ!? カイル様!?」
「やだなあ、マリノちゃん。カイル様! なんて。僕と君の仲でしょー。カイルでいいよ!」
「ま、まりのちゃん??」

 初めてこの本拠地に来た時挨拶しただけで、君と僕の仲もあったものではない。でもその馴れ馴れしいともとれる物言いも不思議と不愉快ではなく、楽しい気持ちになってくる。マリノはちょっと苦笑してニコニコ笑っている女王騎士に言った。

「はい。じゃ、カイルさん」
「さんもいらないけどな。ま、いいや」

 カイルはさっさと洗濯物のつまったカゴに歩み寄ると、ヒョイとシーツを取り上げた。

「えっ、ちょっ、カイルさん!」
「手伝うよ。こんなに沢山、大変でしょ」
「そんな、いけませんよ! 女王騎士ともあろう方が…」
「女王騎士だって夜眠る時はシーツを張ったベッドで眠るでしょー」
「でも…」
「いーからいーから。ああねえ」
「はい?」
「さっきの歌、なに?」
「えっ、あ、あれは…店のおばさんが教えてくれた歌で…」
「へえ。また歌ってくれない?」
「えっ」
「聴きたいな。だめ?」

 マリノが5回振ってやっと広がるシーツを1、2回で伸ばしながら、カイルが男の子のような目を向けてきた。マリノはフワッと赤くなって目をパチパチと瞬かせた。

『ひええ〜、女の子たちが騒がずにいられないのがわかるわね…』
「マリノちゃん?」
「え、あああ、はい!」

 マリノはドキドキした心をごまかすようにシーツを手に取ると、カイルの横にならんで歌い始めた。あらたまって披露した事などないのでややはにかみながらもじもじと歌っていると、マリノの声にならってカイルも歌い始めた。

『ええっ』

 驚いて見ると、カイルは大概の人間が心を許してしまうであろう笑顔を向けて来た。マリノは嬉しくなって来て、声を大きくした。

『カイルさんといると楽しいなあ。きっとカイルさんって女の子と楽しく過ごす事が眠ったり食事したりするのと同じくらい当然の事なのね』

 マリノは橋の向こうから向けられている視線に丸で気付かないまま、ウキウキと洗濯物をこなした。カイルが女にとって心浮き立つ存在である分、男にとって気になる異性と絶対引き合わせたくない存在である。他人の気持ちと同じくらい自分の気持ちにも鈍いベルクートは、楽しげにしている二人に歩み寄る事も踵を返して立ち去る事もできず、ポツンと立ち尽くしていた。

「……」
「なにしてるのさ」
「!」

 声をかけられて、ようやくサイアリーズが立っている事に気付いたベルクートは狼狽して2、3歩あとじさった。

「サ、ササササイアリーズ様…」
「なんだい、あんた程の男が隙だらけじゃないか。あたしが敵だったら死んでたよ、ベルクート」
「は、め、面目なく…」
「そういうことじゃなくてさ、そんなに気になるならあの二人の所へ行けばいいじゃないか」
「え…」
「何をボーッと見てるのさ。カイルは誰にもああだけど、大概の女の子はそうは思わないからね。好きになってしまうかもしれないよ?」

 ベルクートはグッとつまって何も言えなくなってしまった。サイアリーズは頬を引きつらせながら苛立たしげに右の爪先で地面をカツカツと叩いた。

『〜〜〜〜この〜、でかい図体して、剣士ってなんでこう甲斐性無しなのかねえ!』
「何かおっしゃいましたか? サイアリーズ様」
「べ・つ・に! とにかくねえ、ベルクート。真面目な話、剣をとった以上あんたは優しい生活ができる人間じゃない。ちがうかい?」
「は…」
「言いたい事は言える時に言っておかないと、どうなるかわからないだろう。言いたかないけどマリノが1人残されて、なんてことになったら…」
「マリノさんは1人になる事はないと思います」
「は?」
「だれからも愛されて、大切にされると思います」
「………」

 サイアリーズはしげしげとこの朴念仁の顔を見た。陽に焼けて精悍さを増している整った顔の中にある不似合いなくらいきれいな青い瞳は大真面目だった。サイアリーズはふいに自分の中に抱えて来た全ての事が馬鹿らしくなって腹が立ってきて、やや削げたベルクートの頬を思いっきりつねった。

「な、何をなさるのです! 私が何か失礼な事を申しましたか!?」
「やかましい! その口が言うか!! 」
「ぐあっ!」

 サイアリーズの怒気が触れたのか、その時カイルがようやく二人に気付いた。

「…なにしてんだか? あの二人」
「えっ?」

 マリノも向くと、仲良く(?)じゃれあう二人が見えた。さっきまで浮き立っていた気持ちはすっかり消え、そわそわし始める。カイルが男にとって油断できない人間なら、その美貌を隠しもせず堂々としているサイアリーズは女が好きな男といたらジーンの次くらいに気になって仕方がない存在だろう。

「ね、ねえ、カイルさん。あの二人、何の話をしてるのかしら?」
「さあー。風向きが悪くてあまり聞こえないね。ケンカしてるのかな?」
「ケッケンカ?」

 穏やかなベルクートと一度も衝突した事がないマリノの心は俄然波立った。何を話しているのか知りたい! と思った瞬間、マリノの足は駆け出していた。

「あらっ、マリノちゃん?」
「すいませんカイルさん、それ見ててもらえます!? すぐ戻りますから!」

 やっと解放された頬を摩りながら何も言えないでいるベルクートは、吊り橋が軋む音に振り返った。

「ベルクートさん!」

 ベルクートは、目を瞬かせて自分にむかって一直線に走って来るマリノの姿を見た。サイアリーズは目を見開いて、ややまぶしそうにマリノを見た。

「あっ、あの」

 マリノはベルクートのすぐ横に駆け寄って、心配そうに二人の顔を交互に見た。何を言ったらいいかわからなくて口をパクパクさせている様を見て大体の事を察したサイアリーズは、たまらなくなったように豊満な胸にマリノを抱き締めた。

「ああもう、この子は!」
「さ、サイアリーズさまー! ? くるしいですー!」
「見ていたろう、ベルクート」
「サイアリーズ様」
「あんた、さっきこの子が皆に愛されるって言ったね。いいのかい? この子があんたがこえられない橋をあっという間にこえてあんたのもとに来たように、他のだれかの所に行ってしまって、本当にいいのかい?」
「それは…」
「むー! むー!!」
「ベルクート!」

 カイルが手を前にかざしながら歩み寄って来る。目で命じられるままベルクートも手をかざすと、パン、と軽く叩かれた。

「はい、交代」
「えっ」
「じゃーね、マリノちゃん」
「カイルさん」
「今度一緒に昼食を…あいたたた!」

 カイルはサイアリーズに耳を引っ張られて行ってしまった。ベルクートとマリノは目を瞬かせて二人を見送っていたが、どちらから見るともなしに見合った。目が合うと、ベルクートの顔がカッと赤くなった。

「……ベルクートさん?」
「あの、マリノさん」
「はい?」
「……手伝います」
「は?」
「あの、洗濯」
「へっ、あっ、はあ、ありがとうございます…」

 大きなハテナを頭の上に飛ばしているマリノに真っ赤になったままのベルクートが嬉しそうに微笑んだ。
 吊り橋を仲良く渡っていく二人を恨めしそうに見ながら、カイルはブツブツと言った。

「別に何かをするとかじゃなくて、このあとお茶でもどうかなあって思ってただけなのに…」
「だれも信じやしないよ」
「ひどいなあ!」

 あれやこれやと弁解するカイルの言葉を聞き流しながら、サイアリーズは二人をまた見て微笑んだ。

おしまい。