目が覚めると、窓から射した光が手入れの行き届いた部屋に拡散して明るく自分を包んでいる。清潔ないい匂いがするベッドから出て窓を開けると、セラス湖を渡って来た風が派手さはないがきれいなカーテンを揺らす。

「ふむ」

 気分良く目覚めたハヅキは髪を梳きながら部屋をぐるりと見回した。ハヅキは半ば押し掛けでここに来たのだから,宿でなくてもこの王子軍の砦の空いている部屋でも貸してもらえればいいと言ったのだが客なのだからとあのいつも笑っている王子にこのマリノの宿に入れられてしまった。

「……」

 謂われもなく嫌われるのは誰もいい気はしない。自分の顔を見るたびに複雑な表情を見せるマリノにハヅキは正直いかんともしがたい心持ちでいたのだが、この宿に泊まるうちに気持ちが変わって来た。ハヅキは自分の事はなんでもきちんと過ぎるくらいできたが,こんなふうにいるかいないか全く分からないように包むように他人の生活を世話する事などできない。1日を終えて自分を受け入れる部屋がこんなに大切なものだったとは、ハヅキはこのマリノの宿で暮らすまで考えた事もなかった。
 ハヅキは剣であろうと,生活であろうと、仕事であろうと,自分が成すべき事をきちんと果たせる人間が好きだった。自分に役目を課し,全うを志す清潔な人間が好きだった。

「ん」

 何気なく窓の外を見ると,宿の周りをほうきで掃いているマリノの後姿が見えた。ハヅキはマリノが何もしていない所を見た事がなかった。
 着替えて髪を結い,身繕いを終えてハヅキは扉を開けた。





「あ」

 機嫌良く歌など歌っていたマリノが歩み寄ってくるハヅキを見たとたんにピタッと口を閉ざし上目遣いになった。ハヅキは最近感じるようになった,ベルクートに負けた時とは全く異質の動揺を心に押し込めてマリノと対峙した。

「…話がある」
「…」

 マリノが目線を下に落とした。この砦でマリノにこんな表情をさせるのはハヅキだけだろう。ハヅキはなるべく平静を装って言った。

「私は,おぬしが好きだ」
「はっ?」

 大きな目をさらに開いて,マリノはポカンとハヅキを見た。ハヅキは真っ赤になって突き出した両手を左右にブンブン振りながら言い直した。

「い、いや! ち、ちがう、怪しげな意味ではなくてその」

 怪しいものではないと自分で言っている不審人物を頭の裏で思いながら、ハヅキは咳払いをして話を仕切り直した。

「そ…その、そう、尊敬しているという意味だ」
「えっ」
「あの宿で暮らせば分かる。人となりと、仕事に対する誠実さ。宿の仕事とはそうしたものなのだろうが、誰にも分からないように最高の準備を1日も欠かさずし続ける事は、余程の信念と志がなければできることではないと思う。」
「………」

 マリノの白い肌がかあっと赤くなった。それを気付かれないのがマリノの仕事だが,わかってくれた上にほめてもらった事など生まれて初めての事だったので,頭で考えている都合など知らない心の方が喜びで一杯になった。が、脳を通して出て来る言葉は、そっけないものだった。

「そ、そんなの…当たり前の事よ」
「当たり前の事をきちんとし続けることが一番大変で大切な事だと,私の師が言っていた。私もそう思う。だから…」
「えっ」

 ふいにハヅキがマリノに歩み寄った。手を伸ばせば届く距離まできて、涼しい目がまっすぐマリノをとらえる。りりしく結ばれた薄い唇を見て,マリノは本当に美しい娘だなと思った。思ったすぐ次の瞬間、みぞおちの当たりに何とも言えない感覚がよぎる。

「な…何?」
「だから、そういうおぬしが私に何か不快に思う所があるなら、それは余程の事なのだろうと思う。本当ならば自分で考え改めるのが筋で、聞くなどと我ながら愚鈍の極みだと思うが,本当に何も思い至らぬのだ。よかったら、言ってはくれぬか。」
「ハヅキさん」
「私は、おぬしを不快にさせていると思うととても悲しい心持ちになる」

 マリノはハヅキのきれいな瞳を見ている事ができず、視線を落とした。人を責めず,自分の至らなさに思い沈み,どこまでも前向きなその心映えが時にどんなに他人の心を苛むか丸で知らない汚れなさはベルクートと同じものだ。
 いつだって誰も悪くない。悪いのは…。

「おい?」
「…ほっといてよ」
「マリノ」
「私が勝手に冷たい態度を、と、とって、るんだから、あ、ああなたもそうすれば、いいじゃない。なんで、なんでわたしのことなんか…」
「!」

 マリノの大きな目から涙がポロポロとこぼれた。ハヅキはそれを見て,サーッと血の気が引いた後,すぐカーッと頭に血が上ってクラクラした。金縛りにあったように動けないハヅキの心臓だけがガンガンと鳴っている。

「な、マ,マリノ、何を泣く事が」
「…ごめん、なさい」
「なっ?」
「わ、私、あなたが悪い人じゃないってわかってる。わかって、るの。でもどうし…ようも、ないの。ごめんなさい」

 顔を両手で覆って健気に訴えるマリノの姿を見て,ハヅキは心の奥がキュッと何かに絞められたように切なくなった。見ている事ができなくて、ハヅキは気付いたらマリノの身体を抱いていた。

「あ…」
「…すまない、マリノ。そんなに強く思う事があるのに,本当に分からない私を許してほしい」
「……」
「言いたくないなら、何も聞かない。許せないなら、許さなくていい。だから、泣かないでくれ。頼む」
「う……っ」

 マリノが頑なだった心を少しだけ開いて、ハヅキの身体に身を任せて泣きじゃくった。ハヅキは努力で解決できないことなどひとつもないと思っていた。解決を求めず何もしない事など怠慢だと思っていた。しかし、マリノの傷一つない小さく柔らかな身体が伝えてくるかつてない動揺と、正体のわからない…安らぎのようなものは、壊れないように抱いていることしかできなかった。
 ハヅキは目を閉じてその正体を知ろうとしたが,わからなくてもいいと思っている自分に気付いただけだった。





 泣き止んで一人になりたいと言うマリノと別れ、宿の部屋に戻る道すがら冷静になるにつれて彼女の心を乱すものをどうしても知りたいという気持ちが湧いて来た。マリノはハヅキは悪い人ではないと言っていた。と、いう事は自分は元凶ではないということか?

「……むう」

 何ともいえない不快感が心をよぎる。自分でないなら誰が。

「どこかの誰かなら、私の方が何千倍もマシではないか! 私であれば、あんな気持ちには絶対させぬものを…!」

 …友情とか愛情とかいうよりも、母親をどこかのだれかに攫われるような気持ちになっている事にハヅキは気付いていない。どんどん盛り上がって行く気持ちを抑えられずにイライラしている所に、この砦イチの器用貧乏,要領の悪さと鈍感さではファレナで肩を並べるものはないと評判のベルクートがノコノコと現れた。

「おや、ハヅキさん。早いですね」
「………」

 ベルクートの暢気な笑顔を見て,ハヅキの心に正体不明の怒りが湧き上がった。 何の理屈もなかったが,ハヅキはスラリと剣を抜いた。

「ハ,ハヅキさん!? 何を!」
「五月蝿い!! ベルクート、そこに直れ! 成敗してくれる!」
「お、落ち着いて下さい!」
「問答無用!!」

 割と的を外していない八つ当たりは、数時間後王子が止めに入るまで続いた。