人の気も知らないで
「〜〜〜〜わかった」
「えっ?」
榎木津の低い低い声に益田が顔を上げた。
「無理を言って悪かったな。もう言わない。だからこの部屋から出て行け」
言うだけ言って、榎木津はベッドにゴロリと横になった。
「……」
「……」
そもそも榎木津は押したら引くくせに引いたら押して来るようなうだうだした人間のために何かをしてやることが大層嫌いだった。自分から何もしないくせに何か起こることは期待している卑怯ものなんてもっての他だ。…他のはずなのに、何故こんな自称探偵助手なんかのためにここまでやってやっているのかと自身を呪いながら目を閉じて待っていると、案の定益田がノコノコとベッドに近寄って来た。
「榎木津さん、あの…」
「『ごめんなさい』とか『あなたを嫌いな訳じゃない』とかいったら脛を叩き折ってやるぞ」
「ひっ」
益田が息をのんで固まったのが気配で分かる。ここで引かれたらさっき引いてやった意味がなくなるので、心の中で舌打ちしつつもじっと我慢して黙っていると、ベッドが揺れた。薄く目を開けて伺うと、益田はベッド際に腰掛け下を向いていた。困ったような、恥ずかしいような顔をして。
面倒だなあと思う。いちおう生活力があって、人間力もあって、頭も良くて、気も利いて、小賢しい要領の良さ小器用さを持ちながら、肝心の部分はからっきしにもろい。脇が甘い。バカオロカだ。
「っ」
視線に気付いたのか、益田は目だけでこちらをうかがって増々赤くなって下を向いた。榎木津はため息をついて身体を起こし、益田の右肩に腕を回し、左肩に自分のあごを乗せた。
「おい」
「は、はい」
「あそこまで言われて、恥をさらして居座る気なら何か言え。僕なら恥ずかしくって死ぬが、マスオロカならできるだろ。ん?」
「…いじめないでくださいよう」
「自分のフガイなさを僕のせいにするな。お前なんかいじめてやる価値もない」
言いながら回した右腕で強く抱くと、益田は固く目を閉じて震える手を榎木津の手に添えた。なんだか可愛げを感じて左手で髪をなでてやると、顔をこちらに向けて唇を頬に寄せて来た。ん?
と思い、目の色が恥ずかしさと興奮と多分いくばくかの喜びでなんだかわからなくなっている益田をつとめて優しく見てみると、少しほっとしたように微笑んできた。
榎木津は内心ため息をついた。どう自覚してるのかは知らないが、ふざけてヘラヘラしていなければ世間と折り合いもつかないくらいにこの男の根は愚直と言っていいくらいまっすぐでお人好しで温かくて誠実なのだ。つまりどういうことかというとヘラヘラしたくない気持ちを抱いている相手が求めて来るなら、まっすぐ優しく温かく誠実に愛されないと心を開けないということでそれはつまり。
『ああああ何で僕がこの年になってそんな恥ずかしいことを! どこまで面倒なやつなんだ!』
「榎木津さん」
なんだ! とどなりつけたい心を抑えて腕を解いて自由にしてやると、益田は照れくさそうに榎木津に身体を寄せた。人の気も知らないで少し嬉しそうにしている益田に本気でげんこつを食らわせたかったが、「引く」作戦がどうも功を奏しているらしいので半ばヤケで引き続けることにした。目を閉じると、唇にキスをして来た。益田はこういう小手先の事はそれなりに上手いのでされるがままになっていると、ぱたりとベッドに倒された。
「ふあ」
現金にもなんだかその気になってる上気した顔に少し腹立ちつつもまあいいかなどと思っていると、そろそろと益田が上に乗って来た。伺いも立てずにそっちをやる気かいい度胸だと目を細めて唇を舐める。それを見ているのかいないのか、益田は前髪で表情を隠して榎木津の上に倒れた。
「ん?」
益田は身体とベッドの間に手を差し入れ、肩と頬をその胸に押し付けるように榎木津を抱き締めた。パチパチと瞬きした後一瞬本当に殴ろうと思ったが、うー、とか、んー、とか言っている様がどうにも、…どうにも脱力で(断じて、断じてかわいいとか思った訳ではない)ゆるゆると髪をなでてやったりしていると、ようやく益田が榎木津の胸で何か言い始めた。
「…あのう」
「なんだ?」
「なんか今日優しいですよね…」
「神はたとえバカでオロカでも健気に生きる人間には寛大なんだ」
「ははは…。あの、実はこれでいっぱいいっぱいで…」
益田はぼんやりした顔を上げて言った。
「これ以上何かしたら僕、死にます多分」
榎木津は鼻で笑って、益田のえらの下辺りに指を這わせた。バカみたいに脈打っている首筋を撫で、顎を掴む。上気した顔を自分の顔に向け、この男にふさわしく、優しく、温かく、まっすぐ、誠実に言った。
「死ね」
「…はい」
益田は榎木津の手を取ってベッドに押し付け、ゆっくりと膝を立てて覆いかぶさった。されるがままになっている神の顔を見て瞳を数秒揺らした後、顔を傾けて近付けた。
その時、榎木津のシャツに何かがぽたりと落ちた。
「ん?」
「…あ」
益田はゆるゆると自分の顔を手でおさえた。
「益田君。君の気持ちは察して余りあるがねえ。下向いて泣いていたら永遠に止まらないと思うよ、鼻血は。せめて上を向きなさいよ」
「………………」
事務所を転げ回りながら腹を抱えて爆笑している探偵の笑い声と和寅の呆れ声を聞きながら、益田は台所でちり紙を何枚も鼻に当てつついつまでも泣いていた。