B-10.今は、まだ
ギリシャだかローマだかの石膏像が裸体であるにも関わらずあまり色気がないのは、芸術だからどうこうじゃなくて整いすぎているからだよなあと波間を漂う榎木津を見て考えながら、益田は海辺の釣具屋に借りた麦わら帽子を抑えた。
服の下にちゃっかり水着を着込んで来ていた榎木津に連れてこられるだけ連れてこられて岩場に放置された益田は、どこまでも青い空の下、ひゃあ、とかおう、とか言いながら波に抱かれている探偵をぼんやりと眺めていた。関東の深い色の海に白い身体が見えたり見えなかったりすると、ただでさえ冗談のような美貌が増々作り物めいて見える。
『…きれいだけど、何か夢みたいなんだよなあ…。別世界っていうか…』
「カマオロカー!!」
「わっ! 」
長い腕を無邪気に振っている榎木津に、益田は我知らず強めに言葉を返した。
「びっびっくりしたっ! そんな大きな声でそんな呼び方しないでくださいよ!」
「じゃバカオロカー!!」
「もっとひどいですー!」
「何してるーこの暑いのにそんな所で服着たままなんて、ホントの変態だったのかー」
「僕水着ないんですよーっ」
「下着くらい着てるだろうがー!」
「し、下着って…」
あの立派な身体の横で、パンツひとつになっている自分の貧相な身体を思い描いて折れそうになる心をなんとか支え、ふんとそっぽを向いた。
「僕泳ぎたくないんです! 気にしないでください!」
榎木津は立ち泳ぎで面白くなさそうな顔をしていたが、まねするようにそっぽを向いてザパンと頭から下へ潜って行ってしまった。
「……」
益田は、ふ、とため息をついて阿呆のように晴れている空を見上げた。気温は高いが湿度はそれほどでもない。爽快な高い空をカモメだかウミネコだかが飛んでいる。
悠々と飛ぶ鳥どもの軌跡を眺めながら、こんなところに榎木津が連れて来るのが何故自分なのかぼんやり考えてみた。中禅寺、関口、木場、和寅等知る限りの探偵の交友関係を思い描く。
「………」
なんだかとても切なくなって来たのでやめて、やれやれと海を見たら、まだ波が寄せて返すばかりで、人の気配が消えたままだった。
『…?』
波の音と風の音と他愛のない考え事は時間の感覚を狂わせる。そんなにたっていないような気もするし、ものすごくたっているような気もする。
「…榎木津さあん!」
どうだったか、と思っている今も、ざざあざざあと寄せて返す波にはぴくりとも変化がない。そんなバカなと思っている間も口の中が渇いて行く。榎木津が溺れることはありえないとしても、ざぶんと飛び込んで上を見上げ、ゆらゆら揺れる太陽がきれいだとぼんやり見ている様が鮮やかに想像されたとき、益田は何も考えずに麦わら帽子を放って靴を脱いでいた。
「っ」
服を着たまま海に飛び込む事が自殺行為であったことを思い出すのに時間はかからなかったが、それでも益田は何度も波にさらわれそうになりながら必死になって海の中を見回した。
「ぶ、はっ!」
服が海水を含んでどうにも重くなって、はやる頭に身体がどうにもついていけなくなって、心が波に押されそうになった時、作り物のような腕が益田を抱えた。
「がっ ?」
「このバカオロカ!」
何が起こったか分からずにぼうっとしている益田の目に、自分を抱えている榎木津と、襲いかかってくるような波が見えた。
「………!!!」
波は二人を飲み込み、退かすように押しやると岩場に叩き付けた。身体を引きずるように引いて行く波を感じながら必死に岩場にしがみつき、榎木津を見ると、肩を押さえて呻いていた。
「榎木津さん!」
「〜〜っ、」
益田は自分でも驚くような早さで岩場を這い上がって、榎木津の身体に手を貸して引き上げ、波の届かない所まで導き、押さえている手を外して肩を見た。
丸い赤い打撲の跡の中心に、血がいく筋か滲んでいた。
「っ、え、えええのきづさん、傷が!」
「何してるこのバカ! 」
「ひゃっ!」
いつにない腹の底からの怒声に益田が飛び上がると、たたみかけるように榎木津の声が飛んで来た。
「ああもうおまえなんかバカオロカですらない! ただのバカだ! 来いと言った時来なくて、なんで僕が見ていない時に服のまま飛び込むんだこの真性バカオロカバカ!!」
「え、え、榎木津さん、もうバカで結構ですから、傷を洗いに…」
「バカで結構だと!! 何様だおまえは!!」
「ごめんなさい…申し訳ありません」
「この」
「本当に僕は、僕は何を」
「…」
榎木津の舌打ちが痛くて、益田は真っ赤になってうつむいた。恥ずかしくて何を言ったらいいか分からない。
こんなときなのに、榎木津の作り物ののような身体についた一点の傷が生々しさが気になって、益田はつとめて目をそらしながら立ち上がった。
「あの…さっきの釣り具屋さんで身体を洗わせてもらいましょう。いけませんこのままじゃ…」
「話は終わってないぞ」
「後でいくらでも怒られますから」
「こっちを見ろバカオロカ」
「は」
「きもちわるいぞ、お前」
「……」
目だけを榎木津に向けると、じいっとこちらを見ていた。いつものおどけた子供らしさのない、表情のない顔だった。益田は、うつむきがちに、でもその瞳に応えるように言った。
「申し訳ありません…。僕、自分の気持とか、あなたとの距離とか…全部言葉で誰にでもわかるように説明できるんです。知ってるんです。でも、あなたを初めて訪ねた日のように…。心が命じると、身体がまっすぐあなたの元に向かってしまうんです。…ほんとうに気持ちの悪い事ですけど」
「……」
「…何を言ってるのかわからないなら…。気持悪かったら、こういう時に僕をお誘いにならないことです。自分をわきまえてあなたのそばにいます。…それを許されてるだけでも、光栄な事なんですからね、本来は。ははは…は、は、ハ」
「?」
「ふあ、ハックショイ!!」
まぬけな空気が流れた。こっちの事など全く知った事ではないウミネコだかカモメだかの鳴き声と、波の音が遠くから聞こえる。おそるおそる見ると、榎木津が半目で鼻の下をのばしてこちらを見ていた。一瞬怯んだが、ここだとばかりに榎木津の手を掴んで立ち上がらせて無理矢理歩き出した。
「おい」
「だ、だ、大分日も傾いてきましたからねえ。お互いこの格好のままじゃあよくありません。うん」
「離せカマオロカ」
「だ、だ、だめです。早く行きましょう。早く全部洗い流して傷も手当てしてもとどおりに」
榎木津は先を歩いていく益田の真っ赤な耳を、掴まれていない方の手でぎゅっと引っ張った。
「うぎゃ!」
「僕はかまわないぞ」
「えっ?」
そのまま、榎木津は黙った。
たまに車が通る道ばたに、大の男が水着ひとつで髪から海水をしたたらせながら立っている。なのに滑稽さは微塵もない。何を今言われたかも忘れて、益田はぼんやりとその美貌にみとれながら、肩の傷を気にしたりしていた。ので、また耳をぐいと引かれた。
「いたっ!」
「自分で考えてばっかりいるから知ってるだけで何も分からないんだこの偏執狂自慰男」
「へん…。い、今までで一番ミもフタもないお言葉のような…」
「ふん」
「あっ、榎木津さん、待ってくださいよう」
さっさと歩き出した榎木津の後を追った。益田は美しい肩についた傷ばかり見ていたので、榎木津の表情にはとうとう気付かなかった。