気づかないで
益田はぼんやりと「ああこれは夢だな」と思った。清潔だがやや黄ばんだ古い病室の、何の味気もない白いベッドに寝ている。ここは見覚えがある。通っていた高校の保健室だ。寝そべったまま腕を上げて見ると、ご丁寧に当時の学ランまで着ている。違和感はない。夢なので、何の根拠もなく自分は10代と自覚している。自覚した所ですることもないのでボーッと寝転がっていたが、ふと涼しさを感じて目線を降ろした。
「ん?」
ズボンと下着を履いていない。そしてそのミもフタもないありさまを覆い隠すように、白衣がかけてあった。
「おおー」
益田は懐かしい心持ちになって白衣に手をかけた。「保健室のせんせい」というのは青少年のアレコレをいい感じに刺激するものだ。白い開襟シャツと黒いタイトスカートに豊満なバストとお尻をパンパンにつめ、その上に白衣など着た女保健医(それがあるかないかで興奮度が違うのだから白衣というのは不思議だ)が「もう、頭が痛いとか言って、益田君ったらほんとうは何しに来たの?」なんて言ってくれたりする。
もちろん本当の保健の先生は性的な魅力のカケラもない口さがない気のいいおばさんなのだが、10代の妄想…もとい、健康な想像力は無限大だ。こういう人には言えない想像をアレコレしていたものである。自分のこの有様を鑑みるに、あまり健全な10代らしい欲望と思えないのが何とも言えない所もあったが。
「……ん?」
白衣を引きずり上げた益田は、妙な手応えを感じて眉をひそめ、よくよくそれを見た。なんだか、魅力的な保健の先生が着るには、若干サイズが大きいような…。
「起きたのか」
「へっ」
ふいにかかった声に見ると、窓枠によりかかった榎木津がニヤニヤしながらこちらを見ていた。逆光にふちどられた美しい容貌がこの平凡な古い学校から明らかに浮いているが、益田は何の根拠もなく榎木津を神でも探偵でもなくこの保健室の主だと思った。思ってしまった。
「………ぼ」
「ぼ?」
「僕ァ…来る所まで来てしまった…」
「なんだって?」
榎木津が怪訝な顔をしてこちらを見ている。想像の保健医と思い出の保健室でなんて多少変態的でも微笑ましい限りだが、こんな所にまでこの人を連れて来てしまうなんて。いざ本人を前にすると何もできずに従うばかりのくせに、なんたるなんたると偏狭な自己嫌悪をしていると、榎木津がホテホテと近寄って来た。
「おい」
「榎木津さあん」
「なんだどうした。ん?」
「ごめんなさいいー。ウエエー」
「なんなんだ。きもちわるいやつだな」
「ほんとに…僕ァここまで自分が気持悪いヤツだったなんてホントにもう…」
「何を今更」
榎木津は鼻で笑うと、益田の下半身にかけられていた白衣を引きはがした。
「ひゃっ!」
「そんな格好で、今更何を言ってる。フフフ」
夢なのも忘れて反射的に股間を隠そうとする両手を、片手で簡単に押さえ込まれた。
「う、うわっ、いけません! それはいけません榎木津さ」
「なにが?」
「っ」
びくりと背を震わせて、益田はかろうじて上がりかけた声を息にして吐き出した。逃げようとするが、押さえ込む左手と、視線と、熱を持ち始めたそれをゆっくりと追い立てる右手に縫い止められて動く事ができない。
『なんだこれ…。何で夢なのにこんなに…』
「おいマスカマ」
「は…」
「がまんするな。ほら」
「んん…」
目の端に、脈絡のない黒い学ランが見える。全く根拠のない保健室に、無責任に始まる世界。状況設定妄想のいい所は手軽に始まって手軽に消える所だ。だからあるはずのない世界で、してはいけない事に興奮できる。汚してはいけないものを自分のものにできる。
「はあ…」
「ん?」
益田の身体の力が抜け、声の調子が変わった。榎木津が組敷いていた左手を離すと、解放された手をするすると首に回してきた。
「榎木津さあん…」
「…急に素直になったな」
「はっ…」
「それがおまえのほんとうか?」
「ううーっ」
「ここでなら見せられるなら、見せられない事もまたほんとうなんだろう。ん?」
「いじめないでくださいよう…」
「益田…」
「ひあ…!」
剥ぎ取られた学ランが床に落ちる音が夢の割にやたらはっきりと聞こえて、益田は身体をすくめた。
「……ん」
益田はゆっくりと目を開いた。意識が覚醒するにつれ朝の気配を含んだ夜の空気と、身体の重さを自覚した。
「………」
榎木津のベッドの上で、その主の横にハダカで横たわりながらなんという夢を見ていたのかとため息をついて首を巡らせると、その榎木津が身体を起こしてタバコなどふかしつつこちらを見ていた。
「きゃっ!」
「なにをつまらない女の子みたいな声を出してる」
絶句して見ると、美しい肢体を無防備に晒しながら、だるそうな目の奥で瞳だけが低く輝いていた。まっすぐこちらに向けられる瞳に、畏れるような惹かれるような心持ちを持て余す裏で、なんともいえない恥ずかしさがこみ上げて来て、水が蒸発するように顔が熱を出すのを感じた。
「えええーーと、……ゆ、夢見がちょっと悪くてですね」
「ほうー」
榎木津がにたりと笑い、ゆっくりと長い脚を持ち上げて毛布に覆われた益田の股間あたりにかかとを落とした。
「ふぎゃっ!」
「朝から元気だったから、慰めてやったのに」
「うえっ!?」
「さぞ面白い夢を見ていたんだろうと思ったんだがなあ?」
「えーうえー」
「すっごく面白いことをたくさん言ってたぞ」
榎木津はタバコを灰皿に押し付けると、ニヤニヤ笑いながら毛布を掴んで硬直している益田に覆い被さった。
「そんな面白いこと、ひとりで見てずるいぞ。僕にも全部言いなさい。さあさあ」
「ゆ、ゆ、夢のことなんて目が覚めたらわ、わ、忘れますウ〜」
「じゃあ思い出させてあげよう。『ほけんしつ』『せんせい』『たいおんけい…』」
「ギャアア! やめてくださいいい!!」
益田は今日ほど「バカオロカ」という渾名が身に沁みた日はなかった。