B-7 切り札として
古いが手入れの行き届いた上品な喫茶店の隅の席でコーヒーなど持て余していた益田は、カランとドアについた小さな鐘を鳴らしながら入って来た男を見てああ、と小さく声を出した。ばっと見思いのほか共通する所がないのに、すぐ探偵榎木津礼二郎の兄だと分かる男は間抜けた顔をしている益田のもとに真っすぐ歩み寄って来た。
「君が益田君だね。今日はありがとう」
「は、あの…」
慌てて立ち上がった益田を手で制し、向かいに座ってオーダーを取りに来た店員にそつなく答える。弟程の上背はないが姿勢が良く、抑えた色合いでも十二分に分かる高価そうな背広を颯爽と着こなす男ぶりのいい紳士は、探偵が何才にでも見えるのに対し、若々しいながらも年相応の渋みを含んだ笑みが魅力的で、会ったばかりなのに益田は榎木津総一郎という人間に好感を持った。
「は、初めまして…。益田龍一です。礼二郎さんにはおせわになっています…」
「ブフッ!」
無難に挨拶したつもりが吹き出されて面食らった。益田が困っていると、総一郎は右目のあたりを手で押さえながら笑いをこらえつつ言った。
「や、す、すまない、礼二郎と関わった人間からそんな事言われた事なかったから…。ブッフフッ」
それはそうだ。自分も誰かにそんなことを言われたら答えに困るだろう。ぱりぱりと頭を掻いている益田に見守られながら、根が明るいのか中々止まらない笑いをようやくしまって、総一郎はさてと話を切り出した。
「…あー、時に益田君。今日君に来てもらったのは聞きたい事があるからなんだが」
「は」
「君は探偵を志願しているそうだね」
「あ…はい」
「ふーん…」
「?」
総一郎はテーブルの上に肘をつき、緩く組んだ手の上に顎を乗せ、笑みを含んだ目で益田を見た。益田はその何気ない所作に「ああ兄弟だなあー」などと暢気に思いながらも、今日一方的に呼び出した説明を促してもいいものかどうか、困って目をさまよわせた。
「…礼二郎は目立つ男だからねえー。ついているだけで仕事はいくらでも来るだろう。でもそれだけであの王様男の周りにいるのはむずかしいと思うんだが…。うーん…」
「え、榎木津さん?」
ものすごい違和感を感じつつもまさか名前で呼ぶ訳にもなあなどと思っている益田に、ぐいと総一郎が顔を近づけて来た。無遠慮で不躾なのに、まるでアリの巣を一心に眺めている子供のような瞳になんだかこちらが後ろめたい事を考えているような気がして来る。
「…あのう」
「うーん、あのねえ」
「はい?」
「礼二郎の周りってヘンな人間ばかり集まるだろう?」
「はあっ?」
「マチコ君とかねえ。面白いよねえ、彼。何言ってるのかわからないし。ぐずぐず鳴ってるし。多分僕なんか一日中彼を見てても飽きないと思うな」
「はあそうなんですか」
「中禅寺君なんて最高だよね。古本屋ってものは元来愛想がないものだけど、所詮本を売ったり買ったりを生業にしてる平和な商売なのに、いっつも大嫌いな人間の葬式に出てるような顔してるんだもの」
「ブッ」
丸で悪気がないその通りの暴言に、益田は目をさまよわせながら笑いを堪えた。
「関口君は今にも死にそうな顔してるし、木場君なんて顔が下駄なんだよ! 人間なのに!」
「そ、それは…」
「でもねえ、君ってねえー。ふつうなんだよねえ」
「はっ?」
虚を突かれて見ると、総一郎は相変わらずしげしげとこちらを見ていた。
「あの揚羽蝶みたいな男に今だついて行けているというからどんな懐刀みたいな男かと思ったら…。さっきも普通に挨拶してくれたし。普通に目上に対する礼儀もあるみたいだし。普通に相手の様子見てるし。普通に受け答えしてるし。うーん」
…微妙に複雑な気持ちになっている益田の心境をよそに、総一郎は首をひねった。
「君は…パッと見八重歯がかわいいくらいかなあー」
「なっ、なにふるんれふか! 」
うにっと益田の唇をまくり上げて八重歯を覗こうとする手を慌てて払う。総一郎はいたずらっぽく目を光らせて、尚手を伸ばした。
「お?」
「やめてくださいよう、なんだっていうんです」
「うふふ」
「うー」
そんなに邪険にもできないので顎を引き首をすくめて手を避けようとしたが無視される。総一郎の顔を伺うと、何がそんなに楽しいのか機嫌良くかつ意地悪に笑っている。意地悪な時の探偵とあまりにも同じ顔だったので、益田は反射的に抵抗をやめて固く目を閉じた。
「おや?」
榎木津に対するかわし方は、神の気まぐれが去るまで待つしかない。それが徹底して刷り込まれている益田は、つい待つ体勢になってしまっただけなのだが総一郎はそれがとても面白かったようで増々にじりより、無防備な頬をつかんで引っ張った。
「むー」
「ははは、かわいいなあ」
「やめてくださいー!」
「あのー…」
「あ、すまないね、ありがとう」
総一郎は何事もなかったように手を離すと、いつのまにか来ていた店員の気まずそうな視線を笑顔で受け流しながらコーヒーを受け取り、涙目で睨んでいる益田にハンカチを差し出した。
「…ありがとうございます」
「ハハハハ、ここでお礼を言うか。いい子だねえー君」
「うれしくありません」
「フーム」
益田は総一郎の憎めない瞳を半ば諦めたような心持ちで受け流した。総一郎はゆったりと背もたれに背を預けて、相変わらず笑顔のまま言った。
「うんうん、成る程ね。何かわかったよ」
「はあなんでしょう」
「実はねえ、礼二郎をつかまえるのに何かいい手はないものかと和寅君に相談したんだよね。そしたら君を使うのが手っ取り早いとまあそう言う訳だよ」
「榎木津さんをつかまえる? 和寅さんが僕を? 一体何を…」
その時益田の背筋を理屈で説明できない悪寒が駆け抜けた。と、同時に静かな店内にドアを蹴破る勢いで開いたと思われる乱暴な音と悲鳴のようなベルの音が響いた。
「あ」
見ると、戸口で蹴り出した足をそのままに剣呑な目で店内を見回す噂の人その人がいた。
「榎木津さん!?」
「おー、すごい。効果てきめんだなァ」
思わず立ち上がった益田とのんびり感心している総一郎を見つけて、探偵は表情をそのままにのしのしと歩み寄った。
「うーん、1ヶ月つかまらなかったのに、こんなことならもっと早く和寅君に聞くんだった」
「え? ええ??」
目を瞬かせて兄弟を交互に見ている益田を、榎木津は忌々しげに見た。
「ほんっとにお前はバカだな!」
「うえっ!?」
「この男の誘いにノコノコ乗って、何を考えてるんだ!」
「えっ? いや、榎木津さんのお兄さんだし、折角だからご挨拶をと…」
「こんな奴にそんなことしなくていい!」
「こんな奴って、そんな言い方ないでしょう。お兄さんに向かって」
「〜〜〜〜ッ」
榎木津は机に突っ伏して肩を震わせている兄をギロリと睨みつけた。
「この愚兄!! 何がおかしい!!」
「うっひゃっひゃっひゃっ…! だっ、だってこんなフツーな事言われてる君なんて…! ああーなんて滑稽なんだ! アーッハッハッハッ!!」
「笑うなァァッ!!」
「あのー…。これはどういう…」
「ああ益田君、あのね、君からも言ってやってよ。たまの榎木津家の親戚一同の会合にねえ、この極楽皇帝トンボは出たくないとまぁダダをこねる訳だね。親父殿などは奔放な人だから放っとけとか言うんだけど、中々そうも行かない訳だ。大人だし。で、君もよく知ってると思うけどこの男はイヤとなったらヘーキで行方をくらますんだね。最近見かけなかったろう?」
益田は視線を宙に浮かせて記憶を巡らせた。
「あー はい、そういえばそのような…」
「で、君にご足労願ったという訳だ。僕が君と接触すれば礼二郎は出てこざるを得ないだろうと」
「はあ。何故ですか?」
「ブハッ!」
益田は笑いが止まらない総一郎を呆然と見ていたが、突然両頬を引っ張られて驚いて向くと、美しい顔に腹立ち苛立ち等々を立てまくった榎木津が睨んでいた。
「い、いたいです榎木津さあん!」
「だまれバカオロカ! お前みたいな凡カマがこの男にかなうわけないんだ! まんまと罠にはまってこんな事になって…!」
「僕は別に何もないですよう〜。どっちかっていうとはまったのは榎木津さん…」
「うるさい! カマオロカのくせに生意気だ!」
「ひどい〜〜」
「アッハッハッハッ! ヒャッヒャッヒャッ!」
「…………あの」
低い低い声に三人が向くと、上品に笑みを浮かべるこの喫茶店の店主らしき男が立っていた。
「他のお客様の迷惑になりますので、お引取りください」
「すまないねえ、益田君。こんなことに付き合わせてしまって」
「いえ、まあ、いいんですが…。僕何もしてませんし」
運転手付きの大層立派な車の助手席から花のような笑みを向けて来る総一郎に、益田は曖昧な笑みを返した。黒塗りの車の傍らに立つ庶民の背中にちくちくと刺さる往来の人々の視線を気にしないようにしつつ後部座席の苦りきった顔の榎木津礼二郎を見たりした。
「いやいやとんでもない。こんなに劇的な効果があるとは思わなかったよ。よかったらまた頼まれてくれないかな」
「? はあ、僕で役に立つ事があるなら喜んで…」
「黙れ! もうせめて沈黙しろバカカマオロカ!」
「ひゃっ!」
「お前なんかこの愚兄にかかったら頭からぱくっと食べられちゃうぞ!」
「えええ?」
「うーん食べはしないけどね〜。欲しいなーとは思うけど」
「何ッ!?」
「ねえ益田君、うちの会社に来ないか。存外ちゃんとしてるし、礼儀もあるし、責任感あるし、仕事もできて、全く普通なのに礼二郎の首をつかまえておけるなんて言う事ないね。懐刀どころかかなりいい切り札じゃないか。君さえ良ければ望む通りの待遇で…」
「やらん!」
「痛! …ひどいなあー兄の後頭部を殴るなよ」
「あんたがバカなことばかり言うからだ!」
「ははは、ということらしいから、今日は諦めるよ。じゃあ、またね益田君」
「あ…。どうも」
2人を乗せた車は、そうとしか言えない益田を置いて走り去った。益田は後部座席から睨んで来る榎木津の目を受けつつ「仲のいい兄弟だなあ…」などと思っていた。