それはまるで、迷路のような


 益田は忌々しげに溜息をついたことに気付き、目を閉じて頭を振った。椅子の背に背を預け、うん、と伸びなどして、窓から見えるあまり光気のない鈍い夜空を眺めたりなどしてみたが、心のどこかが刺々しくささくれている。

「……ああもう」

 益田は諦めて、顔を盛大に歪ませ、ずるずるとずり落ちる寸前まで椅子の座面に尻をすべらせた。思えば大したことではない。それなりに生きればそれなりにあまり出会いたくない類いの人間と出くわすことはある。益田は特に一般人よりもそういう人間と出会いやすいことばかり好き好んで選んで生きて来たので慣れたつもりでいたが、なかなか甘かったようだ。持て余している何かが腹の底でわだかまっている。少し疲れているのもあるかもしれない。

「…今日は和寅さんと榎木津さんがいなくてよかったな。やつあたりとかしちゃったりして」

 もちろんそんなことはしないが、あまりこの状態を見られたくなかった。和寅にあれこれ聞かれるのはもとより、それ見たことか、と思われるのもくやしいし、変に察してそっとして置かれるのはもっといたたまれない。ましてや榎木津など。

「……」
 
 何となくひと気のない薔薇十字探偵社の中をぐるりと見た。主がいないこの部屋は、大人しく静まり返っていると高級な調度で固められた瀟洒な空間である。高価なだけなものが集められていると下品なだけだが、その次元を遥かに越えているのは益田でもわかった。浮気調査の依頼をされたり、木場が酒盛りをしたりするような、俗な所ではないと言わんばかりに泰然としている。
 榎木津がひとたび高笑いすれば、部屋全体が祭りに沸き出すというのに。

「ハア」

 益田は椅子の上に踵を乗せ、膝を抱えた。取り澄ましたこの部屋は、榎木津がいないことをとても強く感じる。会いたくないような気分のときは特に。

「なんだかなあ…」
「貧乏な声出すな」
「ひどいなあーひとりで疲れてるときくらいいいじゃないですか…」
「ひとりで言うから疲れるんだろうが」
「榎木津さんにこんなこと言える訳ありませんよ」
「なんで」
「なんでって…へっ?」

 我に返った益田は、そっと足を椅子から降ろしておそるおそる後ろを振り返った。

「榎木津さん! いつの間に!?」
「いつも間も知ったことか。僕は帰りたくなったら帰るぞ」
「それはよく存じ上げてますけど、け、気配が」
「一人なのにぶつぶつ言ってて面白かったからソッと入って来た」
「そんな…」

 下唇を突き出して自分の前髪をふうふうと吹き飛ばしたりなどしている榎木津を見上げながら、益田は脱力して肩を落とした。色々とひどすぎるが、探偵は全くおかまいなしに上機嫌で益田に近寄ってきた。

「うふふん」
「な、何です」
「はあ、なるほどなあ」
「勝手に視ないでください!」
「そんなわけで、この僕になぐさめてほしい訳か」
「〜〜〜〜」

 知ったような榎木津の物言いに、益田はカチンと来てややきつく見た。やはり少し疲れている。いつものことが、なんとなく流せずに引っかかる。
 榎木津が片眉をあげてこちらを見たが、変な所を見られた気恥ずかしさもあって、益田は目を逸らして立ち上がった。

「今日はもう帰ります。和寅さんは本家の方だそうですから、自分で戸締まりをして下さいね」
「待て」
「なんです、もう行かないと終電が」
「なぐさめてほしいんだろう?」
「は?」
「いいよ」
「え…」
「いいよ。いくらでもなぐさめてあげよう。どうせ下僕だし」
「どうせって…」

 益田は目を眇めて榎木津を見た。榎木津は首を少し傾げて、整いすぎて何を考えているのかわからない顔でこちらを見ている。

「…」

 いつもなら滑った軽い言葉が出そうなものだが、どこか億劫だった。益田は冗談に付き合えるような気分ではないと判断し、無理に笑って去ろうとした。

「もったいないお言葉ですが、今日は辞退します。じゃ…」
「待てっていうのに」

 榎木津が腰を抱えるようにして抱きついて来た。いつにないしつこさに益田は何か言おうとしたが、口を口で塞がれて阻まれる。

「う…!」

 あまりのことに見開いた益田の目に、薄く開いた榎木津の目が見えた。妙に冷静に見える瞳に、カッと血が上る。

「…っ、いいかげんにしてください! 何考えて」
「なぐさめるっていったらそういうことだろう」
「なんですって?」
「おとななんだから」

 益田は何の悪気もなく見て来る宇宙人を呆然と見た。慣れたつもりだったが、まだまだだった。
 なんだか虚しくなって来て、益田はやや捨て鉢に言った。

「…そこまでおっしゃるんなら、お言葉に甘えますよ。つきあっていただけますか」
「いいよ。なんでもしてあげる」
「っ」

 榎木津ばかりがわかっていて、言葉や気持ちが双方向で行き交わないのはいつものことだ。今日のやり取りなんてまだかわいいほうだろう。それでもなんだか気持ちが固い。かわす気力が沸かない。
 益田は榎木津の目をやや睨みながらも、緩く回された腕を払うことはしなかった。





「おいで」

 自室のベッドに腰掛け、緩く両手を広げて微笑む榎木津に息をのむ。顔は笑っているが瞳は至って真面目に見え、ここに来ていたたまれなくなったが、目を逸らすことができないままドアを後ろ手にバタンと閉めた。
 益田は呑まれないように務めてつかつかと歩み寄り、榎木津の目の前に立った。

「うん?」
「…」

 何故こんな、という至極もっともな質問が喉まで出かかったが、益田はグッと堪えた。癪、というか、その答えを乞うたらこの場で自分が下になるような気がしてイヤだった。いつもの処世を、いつになくやさぐれた心がなんとなく拒否していた。座する榎木津の脚の間に何も言わずに踏み込むと、ぴくりと長いまつげが揺れた。

「ん」

 身体をかがめて顔を近づける。榎木津がやや不思議そうに見ているのが目の端に見えたが、構わずにキスした。半ばやけっぱちで相手の様子も伺わずに、自分の都合を全て押し付けるようにねじこんだ。

「ふ…」

 ベッドに押し倒すと、榎木津は何の抵抗もせず身体を横たえ、乗り上がって来た益田の身体を大事そうに抱えた。益田がその身体に手を這わせながらキスすると、クスクス笑って身じろぐ。

「…なんだか嬉しそうですね」
「そうか? うふふ」
『…なんかいいや、もう』

益田は自身と疲れた気持ちを榎木津に溶かし込むような気持ちでその美しい身体と心を抱いた。榎木津がまたへんな声をあげた。





 益田はそれなりに吐き出せはそれなりにスッキリしてしまう身体のしくみに恨みがましさを感じながら、榎木津の自室のベッドの上にぐったりと横たわっていた。何を考えているのか、当の榎木津は益田に身体を寄せるようにしてぐうぐうと眠っている。

「……ハア」

 殊勝に自分を受け入れる美貌は、崩れることも歪むこともなく益田を包み、応えていた。整いすぎてややもすると冷たく見える瞳に色めいたものがよぎると心が湧き立つのが忌々しく、完全な身体が不自然なものを受け入れて悦んでいるのがどうにも愉快なのが腹立たしく、榎木津の子供騙しのようなキスと抱擁に本当に慰められているのがどうにもやりきれなかったが、ちゃっかりと充足はえていた。

「……」

 益田は榎木津の寝息だけが聞こえる世界にとけ込むように、何も考えずに天井、というより目の前にわだかまっている空気を眺めた。目が慣れて、窓から射す月の光だけでこの榎木津の自室の全貌が見えて来る。
 目が覚めるような用途不明の色の服で何気なく使いこなされた高価な家具が埋まっている。道ばたに落ちているような石ころ程度のものから、ここに来る経緯がまるで想像できないとんでもないものまでが全て同じように雑然と何の説明もなく唐突にある。榎木津に一瞬でも気に入られたものという1点だけでまとまっているこの部屋は、まさに彼の心の中だ。取り澄ました事務所が外面なら、扉一枚隔てて隣り合うこの雑然とした自室は内面かなあなどと思ったりする。

「榎木津さん?」

 むう、だかうう、だか言いながら身じろぐ身体に毛布をかけ直してやると、榎木津はまた規則的な寝息を取り戻した。現金なもので、気が済んだとたん何の悪気もない寝顔に何かうしろめたいものを感じて、益田は榎木津の額に頬を寄せた。

「…ごめんなさい」
「なにが」

 一瞬身体を固くしたが、すぐ息をついて、益田は榎木津の首に腕を回してかかえるように抱いた。

「何かいろいろ、です」
「ふん。どうせバカバカしいことを考えているんだろう」
「…はは、その通りです」

 髪に顔を埋めて腕に力をこめたが、榎木津は何も言わなかったのでそのまま抱き締める。

「…なんだ」
「え?」
「ちょっと早まったかな」
「は?」
「こんな簡単に機嫌が直るんなら、ここまでする事なかったな」
「…なんのお話です?」
「怒ってたから、いなくなるかと思った」
「はああ?」

 益田は上半身を起こして榎木津の顔を見た。榎木津は仰向けに寝たまま、目だけを益田に向けた。

「だってお前、なんだかわからないけどふらっとうちに来たんだ」
「はあ」
「いつふらっといなくなってもおかしくないだろう」
「……それで?」
「なぐさめたらもう少しいるかなと」
「そんなことのためにこんなことを!?」
「うん」
「うんって…」

 細い目を盛大に見開いて、さぞまぬけな顔になっているであろう益田の頭を、榎木津はよしよしと撫でた。益田は崩れ落ちそうな心をなんとか建て直して、なんだかまだ行為の余韻なんかが残っているようなトロトロした顔の榎木津と相対した。

「なんでそんな、バカな…」
「バカとは何だ、バカとは。バカっていうやつがバカなんだぞ」
「榎木津さん死ぬほど言ってるじゃないですか」
「僕はいいんだ」
「なんですか、そりゃあって、そういう話じゃなくて!」
「なんなんだお前。あんなに好き放題しておいて、おしまいにはやりながらやられてるような声出してたくせに、何で今更そんなことで困るんだ」
「うぐ、むっ」

 共犯だと思っていたら存外子供っぽい純粋さをやつあたりのように抱いてしまった恥ずかしさと後ろめたさと、やっぱりどこかどうでもいいようなバカバカしさに苛まれて益田は盛大に赤くなったが、なんとか心の奥を奮い立たせた。

「…榎木津さん」
「なに?」
「確かに大人げない態度を取ったのは悪かったですが、さっきあやまったの取り消します。バカさではお互い様ですから」
「いーよ別に」
「もう二度とこんなことしないでください。僕はここを絶対自分から出て行くことはありませんから」
「本当に?」
「本当です」
「本当ーーに?」
「自分で来たんです。当たり前でしょう」
「……」

 榎木津は疑わしげに益田を見ていたが、何も言わずに自分を見下ろして来る益田を抱き寄せて目を閉じた。程なく聞こえて来た寝息に溜息をついて、榎木津にこの部屋に連れ込まれたもののひとつになって、益田も何も考えずに眠りについた。



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