眠りにつく頃


 眠りに入るほんの少し前、多分人間が生きている上で一番幸せだと感じているゆるゆるとした一瞬に、神がやって来る。すっかり生活の大半を捧げる事になったこの探偵事務所のソファに泥のように力つきて横たわっている時に限り、窓枠に切り取られた夜空のみが浮かび上がる闇の中で、榎木津が何も言わず、手をポケットにつっこんだまま見下ろしている。あの、他の人間には見えないものを見ている瞳で、じっと。

『…いつもながら…もう少しだけ早く来てくれればいいのに…。いちいちままならない人だなあ…』

 益田はほんの少し何も考えなくなったとたん閉じてしまうまぶたの隙間からその顔を見て懸命に表情を見ようとするが、覚えているのは引き結ばれた唇だけだった。そのまま眠りに落ちて朝起きた時、がっかりしたような、大切な事を見送ってしまったような心持ちになるので今日という今日は何かしようと思い、益田は口を緩く動かした。

「、」

 榎木津の気配がいつもと違うのが感じられたので何か言おうとしたが、何も形にならない。そういえば榎木津に改めて面と向かった時、何か言う言葉があったろうか。益田はなんだか寂しい気持ちがこみ上げて来たので、意地になって沈み行く意識をかき回した。

『……ううー』

 なんとか目を開いて、じっと傍らに立つ探偵を見た。 榎木津は少し驚いているように見えたが、ふ、と笑って、益田の元に歩み寄り片膝をついた。

「ねむそうだな」
「…ねむいです」
「そうか」
「……なにかごようですか」
「別に」
「………なにしてるんですか」
「何も」
「………」

 榎木津が「別に」「何も」ないのに自分を見ているとなったら普段なら恐怖に囚われる所だが、益田は今最高潮に眠かったので、ただ、何も考えずに顔の横で微笑んている瞳を見た。

「…そうですか」
「そうだ」
「……すいません今、僕はとても眠くて……」
「知ってる」
「……お話してくれて…とてもうれしいんですけど…ごめんなさい」
「……」

 長くて形のいい指が益田の髪に触れた。ゆるゆると前髪をまさぐって、ずるりとかきあげる。

「…なにするんですかあ…やめてくださいよう」
「ふふふ」

 榎木津の小指がこぼれた髪をはらい、掌が額を撫で、頬、顎を通って首筋に至った時益田はくすぐったそうに身じろいだ。

「いやですよう…」

 少しの間クスクス笑った後、益田はとうとう力つきて榎木津の手の温度を感じるまま意識を手放した。目を閉じる寸前、榎木津の唇が笑っているのが見えた。
 朝目覚めて辺りを見渡しても当然探偵はいないだろう。言うまでもないが夜の事を昼問い質してもまともな答えが返って来るはずがない。聞く気もしない。ただ、もうがっかりはしないだろうと思いながら、益田は幸せな眠りについた。
 


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