お前が愛していいのは俺だけ
気軽には入れないが、受け入れられれば背中からつま先まで柔らかく包んでくれるようなその空間は、他人に見られる事に慣れ、気持ちを秘密に潜ませてやりとりする事に長けた人間達がさざめくように品のいい空気を作っていた。
古くて重厚な、ややもすると重々しい木目の壁を温かい電灯が照らし、曖昧な光と、深い闇とが奥行きを作っている。匂うようなその光源は男には秘密めいた影を落とし、女には丸みを帯びた光をあたえた。
そんなバーの片隅のスツールに、益田はハイボールなど持て余しつつ所在なげに座っていた。「……」
益田は決して醜男ではないが誰もが振り返らずにはいられないような美男子でもない。というより、よく見ると切れ長の涼しい目も、尖りがちな顎も、痩せてはいないがどこか頼りない感じがする身体も、先に行くに従って細くなる長い指も、黙って澄ましていれば整って品のようなものを感じさせないでもないが、それに気付くまで目を留めるだけのハッタリがなかった。すぐ生来の気のよさと調子のよさが出て親しみを感じさせてしまう、どこにでもいる凡庸な男である。その凡庸さが、ここでは浮き立つことを自覚している益田は帰りたくてたまらなかったが、少し離れた所で両脇に時に姉に、時に妹になってくれる気の効いた女性たちをはべらせてうれしそうににこにことしている榎木津を置いて行く訳にもいかず、空気を壊さぬ程度にそっと何度目かのため息をついた。
白の上下に目の覚めるような深い空色のシャツを合わせ、首に黄色いスカーフ、素足にこれまた白いデッキシューズと、益田などがしたら暇な後家さんをたらし込んでいるつもりで逆に弄ばれているような三流の詐欺師にしか見えない冗談のような格好を平然としてみせている榎木津は、益田をここにひっぱってきておきながら特にかまってくる訳でもないが、ではと益田が帰ろうとすると滅茶苦茶機嫌が悪くなる。抜け出そうものなら後で何をされるかわかったものではない。なんだか情けないが、ついて来てしまったが最後、榎木津の気が変わるのを待つしかなかった。
半ばやけになってハイボールをあおると、ふと人が寄って来る気配があった。「やあ」
「?」見ると、向かいのスツールに若い男が座っている。上品に織り目で縞が作ってあるいかにも高そうな背広と青地に赤のラインが入っているネクタイがよく似合っている上背のあるいい男で、確か榎木津の知り合いの知り合い…くらいの縁があったように思う。
髪の先からつま先までさりげなくみがかれたたたずまいに軽薄とかでなく、こういう所に自然にとけ込めるタイプの人だなと思いながら、益田は挨拶を返した。「は、こんにちは」
「きみ、注目されているぜ」
「はっ?」意味が分からない、と言う顔で見ると、男はちょっと人が悪そうに笑って益田に囁くように言った。
「そりゃそうさ。あの榎木津礼二郎が連れて来た男だもの。何者だろうと思うだろう?」
「ああ…」益田は合点がいってへらりと笑った。
「何者って程のものじゃありません。僕ァ榎木津探偵の自称助手の見習いです。太鼓持ちみたいなもんです」
「太鼓持ちで助手? …もしかして、マスヤマ君?」
「えっ、知ってるんですか?」
「よく君の事言ってるよ、彼。マスヤママスヤマと」
「そうなんですか? と、いうか、それ、違うんです。勝手に榎木津さんが言ってて、益田です。マスダ」
「益田君?」
「はいはいそうなんです。ってどうでもいいかそんなこと。で、今日は酔っぱらったとき自分を抱えて帰る人間を用意したかったんじゃないかなと…」
「ああ…」
「すみません、つまらないオチで」
「いや、なかなかどうして…。面白いね」
「えっ?」男は答えずに意味ありげに笑うと、ちらりと榎木津の方を見た。つられて見ると、探偵と両脇の女性の後頭部が見える。特に変わった様子はない。
「? 何か」
「あの人がそんな人間を用意して行動するとは思えないけど」
「そう、ですかねえ? 今日は遊ぶつもりなんじゃないですか?」
「ふうん…」男は、ふ、と笑って益田を正面から見た。柔らかい照明が表情に曖昧な影を与える。笑って締まった頬にえくぼが浮かんだのを見て、何やら益田は落ち着かない気持ちになった。その動揺を悟りながら、男は人当たりよく笑った。
「君は、榎木津氏のような探偵になりたいのかい?」
「え、いやあ…。そういう訳ではないんですけど…」
「見習いなんだろう?」
「そうなんですけど…。少し、事情が違うんです。あの人のやりかたは見習えるものでもないし」
「そうなのかい? 派手な仕事ぶりのようだけど。雑誌などよく賑わしているじゃないか」
「いや、まあ、そうなんですけど、雑誌の記事というのはこれがくせ者でして…」遠慮なくあれこれ聞いて来る割に不躾な感じがなく、聞かれるままに答えているだけで間がうまっていく。特に何かを調べたり知りたいと思っている訳ではなく、会話を成り立たせるためにちょっとした気遣いを持ち寄ろうとする空間が久しぶりて、益田はするすると口を動かして、しまいには無防備な笑顔なども見せるようになった。真実しか持たない(というか持ちえない)榎木津との付き合いで久しく忘れていた感覚にひたっていた。普段余り飲まないハイボールのせいもあるかもしれない。男がしげしげと、笑うと覗く八重歯とか、グラスをもっている指先とかいう益田の微妙な部位を見ている事も気付かずに楽しい気持ちになっていた。
「君はピアノが弾けるのか」
「はい。自分で言うのもなんですが、結構上手いですよ?」
「聴いてみたいな。どう?」男が目をやった先に、アップライト・ピアノが壁際にひっそりと佇んでいた。気が大きくなっている益田は、ちょっと胸などはって見せて立ち上がった。
「よろこんで! 久しぶりだけど、なんとかなるでしょう」
「おっと、大丈夫かい?」足下がふらつく益田を、男はすいと進み出てなんとも自然に支えた。背中を触られているのに、益田は不快な気持ちにもならずにニッコリと笑った。
「ははは、大丈夫大丈夫…」
別にそんなに甘い顔の造作をしているわけでもないのに、可愛げを感じる表情を瞬きしながら見ていた男は、微妙にいいものを見つけたような表情になって、そっと何も考えていない益田を導いた。上機嫌でピアノの椅子に座り、指の甲で鍵盤の上を左から右へ滑らせると、虹のような音が鳴る。
「なにを弾きましょう?」
「あまり曲の名前を知らないんだ。君が好きなのを」
「では」益田はこの店のざわめきを壊すでもなく、かといって退屈ではない少し浮かれたような曲を自然に弾き始めた。談笑している人間たちはピアノが鳴り始めた事も気付いていないが、榎木津を通して益田に関心を持ち伺っていたもの達は、へえ、という顔をした。
「ブラヴォー」
「そ、そんなおおげさな…」ピアノ上部の蓋に手をかけて聞き入っていた男は、一曲終わると軽く拍手をした。益田は照れて手を振ったりなどしていたが、気分よく笑っていた。
「是非もう一曲」
「そうですかあ? じゃ、じゃあ…」男が発し始めている甘えたような、打ち解けた空気に何の疑問も抱かず、益田は鍵盤に向き直って両手を上げた。その両手が鍵盤に落とされるより早く、突如2人の世界の外から生えてきた、低音側に振り落とされた手から破壊的な不共和音が店中に響いた。
「ヒャッ!」
「……」
「…、え、榎木津さん!?」いつの間にか寄って来ていた榎木津の左手が届くだけの鍵盤を掴んで仁王立ちしていた。上からいつにない冷たい目でジロリと睨まれて、益田は驚いていたのもあってすくみ上がった。店内中の人間がポカンと見守る中、ただ一人益田を挟んで榎木津と対峙している男が何も動じた様子もなく、ピアノの上の蓋に肘をかけたままニヤリと笑った。
「何か用があるにしても、少し無粋ではありませんか?」
「うるさい! お前なんかに用なんてない! 僕が用があるのは」一層強い目で睨まれて益田は震え上がったが、あんまりな状況にさすがに引く気になれずへっぴり腰なりに真っ当に立ち向かった。
「な、な、な、なんてことするんです! お店のひとたちも、皆びっくりして」
「うるさいバカ!」
「バカ! バカって! もうちょっと何か!」
「黙って見ていればヘラヘラとそんな男の言いなりになって、知らない人について行ったらいけませんって習わなかったのか!」
「そ、そ、そんな、児童じゃあるまいし、一体何言って」
「まあまあ益田君」ニコニコと笑いながら、男は座っている益田の肩に触れて、自分の腹にもたれるようにそっと押さえた。榎木津の頬がピキピキと音を立てるように引きつるのを見て、何が効いているのかわかっていない益田は逃げるように自分の背中を男に押し付けるような格好になった。
「こらーーーー!」
「なっ、なんですっ!」
「随分益田君がお気に入りのようですね」完全無欠な余裕を見せる男のその言葉が、今までの経緯のどこをどう押せば出て来るのか益田にはさっぱり分からなかったが、榎木津の火に油を注いでいることだけはわかった。
「ちょっ、ちょっ」
「こんなに面白い子を自慢して見せびらかしたい気持ちはお察ししますが、一人で放っておいて、ちょっと余裕がすぎませんかね?」
「なんだと?」
「さあ、なんでしょう」古びたピアノを後ろに、なんということもない若い男を挟んで違うタイプの美男が二人向かい合い、一人は睨み、一人は傲然と受け止めている。気の効いたバーの照明は、余計なものを全て影に落とし、整った面差しと、心に秘めているもののみをはっきりと浮かび上がらせる。誰もが一目で状況を理解できた。
益田は硬直して動けなかった。水を打ったように静まり返っていた店内にざわめきが戻っている。どう考えてもいい見世物である。頬から頭のてっぺんまでの毛穴が全て開いて湯気が出るような羞恥に襲われたが、どうする事もできない。「えっ、榎木津さん! 僕が悪かったのなら謝りますから、どうか、どうかここは抑えて!」
「あやまるだと!? なんでお前があやまるんだ!」
「それはっ」
「言ってみろ! さあさあ!」
「ひー」
「あなたを差し置いて、僕と楽しそうにしていたからだ。ねえ? 益田君」
「ひえっ!?」涙目で振り返り仰ぎ見ると、やさしくにっこりと微笑みかけられた。反面後頭部に感じる榎木津からの謎の電磁波がビリビリと感じられて怖くてそちらを向く事ができない。
男と見つめ合う格好のまま進退極まって硬直していると、後ろの襟首をがっちりとつかまれて引き寄せられた。「ぐえ!」
「おやおや」
「なにジロジロ見合ってる!いやらしいぞ!」
「えのきづざ…。ぐるじ…」
「ふんっ、そもそもお前が悪いんだ!もがけ、苦しめ!この裏切りのバカカマ!」
「なんの事ですかあ〜僕があなたを裏切るなんてあるはずが」
「その口が言うか!この!」
「ははは、まあまあ」男は悠然と笑って榎木津を見た。
「そんなにいい子が慕ってくれてるんだから、蔑ろにしてはいけませんよ。榎木津さん」
「お前がいうなっ!大体誰だっ!あやしいやつめ!」
「おやまあ、今まで気にも留めてくれなかったのに、現金な事ですね」男は特に気分を害した風でもなく益田に微笑んだ。
「親が身を固めろだの今のうちに人脈を広げろと日々うるさくってね…。榎木津氏と渡りを取ればしばらく彼等も黙るかと思ったんだけどとりつくしまもなくてねえ。で、君をつてに取り入ろうというのが本音だったんだ」
「はあ、そうですか」…あまりの堂々とした言いように益田が妙に納得していると、男は全く悪びれずに続けた。
「でも、どうも君を狙ってる方が榎木津氏の覚えがめでたいようだね。僕もそのほうが楽しいし」
「は?」
「じゃあ、今日の所はそういうことで」
「待て!何者だきさま!名を名乗れ!」
「名乗ったって覚えやしないでしょう」男は言うだけ言うと、片目をつぶってみせて行ってしまった。有り余る余裕といい、引き際といい、その男ぶりのいい後ろ姿をポカンと見守りながら、あの人には榎木津の人脈なんて必要ないんじゃないかなあなどと思っていたら後ろからポカリと頭をなぐられた。
「痛ッ!」
「今いやらしい事を考えてたろう」
「何がどうなるとそうなるんですか!何か今日は変…」涙目の益田が気配に向くと、店全体から笑いを堪えるような、なにやらほほえましいものを見守るような気配がある。益田はギーギー言っている榎木津を引っ張って店を出た。
「え、えらいめにあった…」
ネオンや看板があやしげに演出する路地裏で紫色の光を浴びながら、益田は壁にもたれてぐったりと脱力した。何に疲れたのかわからないが、とにかく疲れた。それに追い打ちをかけるように榎木津が益田を睨んでいる。
「……」
「なんですか」断じて自分は悪い事をしていない。していないと思う。多分していない…ような気がするので、益田はつとめて強い目で榎木津を見返した。
「おっしゃりたい事があるなら、はっきり……いえ、あの、言っていただかないと、わからないっていうか、ムニャムニャ」
「ふん」榎木津はふいと顔を背けて、下唇を突き出した。益田の頬がピキピキとひきつったが、ふ、とバカバカしくなってきて、肩の力が抜けた。
「帰りましょう、榎木津さん」
「む?」
「やっぱりこういう所は僕が来るべき所ではありません。一桁お安い店だったら喜んでお供しますけどね。どうにも僕ごときでは手に負えないようです」
「…」榎木津はバカなものを見るような目をしたが、いつもの事すぎて何も答えないような顔をしている益田に何か言う気力もなくなったのか、くるりと背を向けて歩き出した。
「待ってくださいよう、榎木津さあん」
放っておかれるのは腹が立つし、ゆりかごに揺られるように大切に扱われるのはそれなりに嬉しいが、やはりこのくらいの方が性に合っていると、榎木津が何を考えているのかも知らずに、益田はホテホテとその後を追って行った。