B-3.大切なもの


 益田は殊勝に目を閉じ、手を後ろで組んで立っていた。何故目を閉じているかと言うと、目の前で立派な椅子でふんぞり返っている探偵の剣呑な目を見ると、何も悪くないのに謝ってしまうからだ。いや、人としてへいこら謝って失うものなど今更何も持っていないが、今回ばかりはそのアクションはまずかった。益田の頭の上でたゆたっている榎木津しか見えないものが生んでいるであろう誤解を図らずも裏付けしてしまうことになるからである。

『〜〜困ったなあー。この女の人とは何もないって言ったらすごくへそを曲げた上に却って怒るだろうし…。黙っていたら黙っていたでやっぱり怒るだろうし…』

 言ってしまえば浮気調査の依頼をして来た美しい婦人に少し…というか無駄に気に入られてすり寄られただけの事なのだが、全く持って榎木津のこの能力の困った所は事実は見えるが真実は決して見えない所で、その真実の補填は真実の探偵たる榎木津が断定する所であり、更に面倒なのが、榎木津は益田に怒っている訳ではなく、これで不快になっている己自身に腹が立っている点である。ただでさえ蟻の目方より軽い下僕の言葉がますます届かない事は必至だ。
 益田はため息をつき、諦めたように榎木津の出方を待つ事に決めた。心もち肩の力を抜き、長期戦に備える。

『はあ…。なんだってこんなことに…。あの奥さんもなあ…』

 益田はその女性に何か特別な事をしたわけではなにもなく、ただただまめまめしく話を聞き、相槌を打ち、なだめすかし、真面目に依頼された仕事をしただけである。コレをあの寂しい奥さんが自分の事を分かってくれる男だと錯覚したまでのことだったのだが。

『浮気の気配を感じる程心が離れ気味とはいえ、なんだか切ないなあ…。普段そんなに話を聞いてもらえないという事なんだろうか。夫婦ってそんなに会話がないものなのかなあ』

 独り者の益田はそう思うばかりだ。別にこの目の前の探偵のように言葉がほとんど通じない訳じゃないだろうに。自分の方法だけでどんどん歩いていってしまう訳ではないだろうに。
 いや、この人に見えるものは実は神様だと知ってるから成り立っているだけかもしれない。神様だから仕方ないと、神様だから嘘をつく必要がないのだと。神様じゃない人間と向かい合う時、許せる事と諦められる事ってかなり少ないんじゃあるまいか…。
 
『…ん』

 トントンと音がするので片目を薄く開けて見てみると、榎木津が人差し指で机を小突いていた。イライラしているようにも、気持ちを鎮めているようにも見えた。バカバカしくなって来たのかもしれない。
 この完璧な神様が実は我慢している事は…神様になってまで許している事、諦めている事、守っている大切なものはなんだろうか…。そんな事を思いながらうっかり見とれていると、琥珀色の瞳がジロリとこちらを向いた。

「あ」
「なんだ助平」
「ま…またそのまんまな物言いで…」
「事実ダロ」
「事ーーー実ではありますけどぉー、真実ではないですよ」
「ふん。その物言いがむっつりすけべなんだ」
「もー。何言ったって信じないでしょう」
「僕がお前に対して信じてる事なんて、ありんこほどもない」
「ひ…ひどい…。いくら僕でも傷つきますよう」
「ああーバカだ! お前なんかバカの果てに行ってしまえばいいのに何でこんな所にいるんだバカ!!」
「榎木津さんがいるからですよ」

 益田としてはオチのつもりで殴られておしまいにするために言ったのだが、榎木津がむうと黙ったので金縛りになった。おそるおそる見ると、まっすぐ伺うように…えらく真剣にこちらを見ている。
 嘘じゃない…どころか、こんなありったけの本心を真に受けられたら困る。ものすごく困る。困った益田はヘラリと笑って適当な事を言おうとしたが、神に賜ったバカの称号にふさわしく言葉を出す代わりに笑顔を真っ赤に染めた。

「……」
「……」

 榎木津は呆れたように言った。

「お前人の事コソコソ調べてる場合なのか」
「……。……。か…返す言葉もございません…」
「お前は何でもない人間の話なら聞けるんだ。だからつけこまれるんだ。お前もその女もその事をわかってるんだ。なんて愚かしい」

 榎木津は上着を掴んで立ち上がると、バとカの二文字しかない変な歌を大声で歌いながら 事務所を出て行ってしまった。益田は両肩がうっかり落ちるんじゃないかというくらい落として息を吐きだし、寛大な神に許されている事をやっと自覚したのだった。



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