10.別れの言葉



 榎木津はぼんやりと、数少ない気が置けない存在である京極堂のことを思い出していた。あの男も関口に対して絶句したり、諦めたり、呆れたり、何かそういう喜怒哀楽以外の何故存在するのかわからない半端な感情を持て余す事があるのだろうか。例えば今の自分のように。

「やあ榎木津さん…。ははは、貴方は本当にここぞという時に現れますね。さすが神様だなあ」

 くらい、沼の底のような酒場。そこの小さい椅子にだらりと座り、やや油っぽい壁によりかかって益田は涙が流れるままに泣いていた。榎木津は、その店にたむろする視力のほとんどない深海の魚のような目をした男達の注目を集めていたが、全く気にせずまっすぐ益田の元に進んだ。感情の見えない顔で見下ろされて、益田は酒の匂いに満ちた深いため息をついて言った。

「なんかもう…ご存知でしょうけど、ぼくはだめです。自分で、ほとほと愛想がつきました」

 最後の方は声が裏返ってまともな言葉にならない。前髪で隠す表情もない。ヘラヘラ笑って守る心もない。鼻の頭が熱くなって、こみ上げた涙がだらだらと垂れ流されている。だから榎木津に力強く襟首を掴まれて引き上げられた時もただされるがままになってぶらさがっているだけだった。
 だらしなく弛緩した益田の顔に、榎木津は多分和寅も聞いた事がないであろう怒気を孕んだ低い声を吐きかけた。

「黙れ、バカオロカ。お前がダメかどうかなんて、僕が決める事だ。お前なんか僕の後ろで下手な太鼓を叩いていればいいんだ。お前なんてその位の価値だ。そんなこともどうしてわからない」
「榎木津さんの後ろで太鼓を叩くかあ。今思えばすてきな一生だなあ…。知ってたつもりだったのに…ははは」

 乾いた音にすぐ前で猫背で酒を飲んでいた男の肩がぴくりと動いた。左頬を叩いた返す手で右頬を殴る。益田が抵抗しないので派手な音が響いた。パンパンと何度も顔を殴られ、口の端から血が出てもされるがままだった益田がベろりとそれを舐めた時、榎木津は手を引いてじっと締まりのない顔を見た。自分の目が最高に忌々しくなるのはこういう時だ。肝心なものはいつだって絶対に見えないのに、ろくでもないことばかり浮かんでは消える。

「榎木津さあん」

 ぐにゃりと益田が榎木津にもたれかかって首に腕を回した。榎木津は怒りに震えた。このバカオロカは小賢しいまでに利口なくせに、薔薇十字のもとにやって来た事から始まって現在に至るまで、いつだって賢い選択をしたためしがない。自分でわかっているのに、その深い情で必ず最後にバカを踏む。自ら榎木津を遠ざけた腕で、こんなになにもかもわからなくなってからやっと秘めていた情を込めて抱いて、追わなくてもいい傷を余計に増やす。
 こんなことになるのなら別れの言葉なんて無視すればよかった。益田の全てを摘み取ってそばに縛りつけておくべきだった。出来もしない事がグルグルと回る。
 益田が出ていったと知ったとき、そういえば京極堂は鼻で笑った。まるでこうなることがわかっていたかのように。

『人は、理不尽なようでいても、不平不満だらけでも、どんなことでも背負いたくないものははなから背負えないし、やりたいことしかできないものだよ。榎さん…』

「ふーー」

 榎木津の肩に目を押し付け情けなく泣いている益田を抱え、店中の視線に見せびらかすようにして堂々とカウンターに向かい、バンと札を叩き付けて釣りも受け取らずに店を出た。雑踏の中フラフラと歩くと夜の風に頭が冷えたのか、益田はモゾモゾと身じろぎした。

「あの…榎木津さん」
「………」
「もう大丈夫です、歩けますから…」
「うるさい」
「こんなにぴったりくっついてたら、恥ずかしいでしょう」
「〜〜〜うるさいっ!! お前程! バカで! オロカで! 恥ずかしい人間なんてこの世にいない!! 今更これくらいの事で恥ずかしがるなこのハイパーナキヤマバカカマオロカ!!!」
「ぼ、僕が恥ずかしいんじゃなくて、え、えの…。うっ、ヒッ、っーー、うーー」
「泣くなあッ!!」
「うーっ、僕、僕、やっぱりあなたがすきですーー」
「知ってる!」
「ほんとにすきになっちゃったから離れようと思ったのに〜〜やっぱりだめみたいです〜。ふーー」
「〜〜〜ッッ!」

『やっぱりあの古本屋は真性の変態だ! 』

自分の人生を抱えながら目の端に常にあのどうにもままならないサル男を置いているなんて、サドかマゾのどちらかに振り切っていなければ無理だムッツリスケベだと心の中で八つ当たりしながら、何ヶ月かぶりに捕まえた面倒な自称助手をしっかり抱いて家路についた。



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