B-9.大騒ぎ
10.今は、まだの続きです。
「ヒャーーーッ! つ、冷たいーー!!」
「逃げるなー我慢しい」
益田は釣具屋のじいさんに海水まみれの服を剥がされ、結局パンツひとつになってホースの水を浴びせられることとなった。榎木津は喜色満面の釣具屋のばあさんに手厚い手当を受けていた。
「こんなにきれえな身体に、こんなケチな傷がついちまってもったいないったらないねえー。痛くないかい? ん?」
「あんたよくしゃべるなあ」
「こんなへんぴなとこにいるとねえ、あんたみたいな華やかな男そうそう来ないからねえー。心浮き浮きさねー。うれしいネエーウッフフフフ。ああでも一番いい男はウチの旦那だけれども。ウウッフフフフフ!」
「ふーん」
限りなくやくたいもない会話に恨みがましい目を向けている益田に、愛想のない主人が顔めがけてホースをむけた。
「フガッ! ブ、ブハッ!!」
「おい」
「あいよー」
旦那の一言でばあさんが奥から手ぬぐいと浴衣を持って来た。益田は濡れ鼠のまま恐縮した。
「何から何まですみません…」
「泊まってけ」
「はっ?」
「乾かねえよ」
益田の服が吊り下がっている物干竿の横を抜け、じいさんが家屋の裏へ行ってしまった。見ると、いつのまにかばあさんが榎木津にりんごを剥いたりしている。
「……」
榎木津の肩に大げさに巻かれた包帯が痛々しい。益田はパンツひとつのまま、身体を拭くことも忘れてそれにじいっと見入っていた。
あれよあれよと家庭的な茶の間で晩ご飯をごちそうになり、ばあさんのいつ果てるとも知れないお話(会話ではない)につきあい、順番に風呂をいただくと狭い客間に通された。
『……ん?』
窓を開けて、虫の声など聞こえるようになって来た夏の終わりの夜風を通している室内を傘のついた電球が照らしている。オレンジ色とも茶色ともつかないような貧乏くさい光のもとに、二組の布団が並べてデンとしいてあった。
益田は何故かドキドキして来たような気がして、小さく深呼吸した。
『お、おかしいぞ…。なんでこんな』
「マスカマ」
「ひゃっ!」
思わず高い声が出てしまって慌てて両手で口をふさいでいる益田に特に反応することもなく、榎木津はさっさとこちらに背を向けて布団の上にあぐらをかいた。
「え、エエ榎木津さん?」
袖から抜いた腕を前身頃から出して、肩から浴衣をするりと落とした。ボンヤリと陰影を刻まれた榎木津の背中と、痛々しく巻かれた包帯があらわになった。声もない益田に、榎木津は不機嫌そうに言った。
「これ、取ってくれ」
「はいっ?」
「暑苦しくっていやだ」
榎木津は肩に巻かれた包帯をイヤそうに引っ張っていた。それだけのことなのに、益田は更に動揺している自分に動揺してじりじりとあとじさった。
「ええええええー…」
「なんだヨ」
「い、いやべつに…」
「きもちわるいヤツだな。知ってたけど」
「ううう…」
益田は渋々榎木津の後ろに跪いて、包帯の結び目に手をかけた。ちょいちょいと解いてするするとほどくと、少しずつ榎木津の形のいい白い肩に付いた青い痣が現れた。
『うう…』
首と頬から上が熱い。やはり自分はこの美しい身体に付いた痣…傷に、どうにも説明できない感情を抱いている。完璧な個にほんの少しついた歪みに、なにか…。
「おい」
「はっ!」
「変なこと考えてるだろう」
口の中が急速に乾いた。榎木津は向こうを向いたまま黙っている。
益田は唇を舐めた。なんとしてもごまかさなくてはならない。何故かはわからないけれど。
何か言おうとした時、榎木津がちろりとこちらを見た。
「あ…う…」
「……」
「……ごめんなさい」
「何が」
「わからないです」
「ほんとうに気持悪いヤツだな」
「…僕もそう思います」
「フン」
榎木津はつまらなさそうにそっぽを向き、自由になった肩を回した。
「ぐっ」
榎木津が眉をしかめ、いまいましそうに呻いた時、益田はガバッと立ち上がった。
「ン?」
「………」
益田は榎木津の方を見ないで敷き布団を廊下にズルズルと引きずり出した。凝視している榎木津に、益田は背を向けたまま言った。
「僕、廊下で寝ます」
「なに?」
「おやすみなさい」
「ちょっと待て」
榎木津は行こうとする益田の浴衣の裾をむんずと掴んで引き倒した。その弾みで帯がずれて、右肩から浴衣が落ちて開いた前からヒョロヒョロの足が剥き出すという大変情けない格好にされた益田は尚もじりじりと後じさりながら訴えた。
「なんですかっ! 離してください、榎木津さん!」
「お前のきもちわるさに僕を巻き込むな。なんなんだ。説明していけ」
「廊下で寝たいんです!」
「じゃ僕も寝るぞ」
「そ、それはダメです」
「…お前」
「は」
文字どおり引きずりよせられて、益田は言葉を発する間もなく前髪を鷲掴みにされ、畳に後頭部をこすりつけるように押し倒された。
「うあ」
「調子に乗るなよ。何で僕がお前なんかの都合に合わせなきゃならないんだ。 …グッ」
「榎木津さん」
榎木津の顔が痛みで歪んだ。前髪を強く握られ益田は顔をしかめたが、電球の光を背に逆光で自分を見る榎木津の整った顔がぐいとせまってきて声を飲み込んだ。
「痛いぞ」
「…そりゃそうでしょう…」
「誰のせいだと思ってる」
「ぼ、僕の…」
「そうだ。お前だ。お前なんかのせいで、この僕が」
「榎木津さん、痛い」
「こんなところまで来て」
「痛いですよう」
「黙れ」
前髪から離された右手が益田の身体をなぞり、腰に回された。左肘を益田の頭のすぐ横につき、顔をぐいと近づける。益田は後頭部と背中に当たる畳の気配でやっと正気を保っていたが、榎木津の唇が自分の唇に触れた時あっという間になんだかわからなくなった。
「ぐっ、この!」
「あわ、わわ、ふわ!」
訳のわからないことを喚きながら暴れる益田をなんとか押さえ込もうと榎木津がムキになればなるほど、ヒョロヒョロの手足で抵抗する。益田と榎木津の左手がお互いの顎をとらえ、睨み合った。
「何ふるきでふかえのひづはん!」(何する気ですか榎木津さん!)
「うるはい! いうほとをひけ!」(うるさい! 言うことを聞け!)
「ひやれふ! はなひへくらはい!」(いやです! 離してください!)
「はまいきら!」(生意気だ!)
「むーーーーーっ!」
「おい」
「むっ?」
「ぐっ?」
ふいに降って来た声に向くと、開かれた窓の外にこの家の主人たるじいさんが立っていた。
「…」
「…」
「…人の家でケンカすんじゃねえ」
…もっともな言葉に、2人は起き上がりつつゆるゆると離れた。何事もなかったかのようにじいさんは夏の夜の闇に消えて行った。
『…。なにしてたんだろう…』
「〜〜〜ッ」
「あいたっ!」
枕を後頭部にぶつけられ、益田が驚いて向くと榎木津が真っ赤になってこちらを睨んでいた。何か言おうとしたら、背中を蹴られて文字どおり部屋から叩き出された。
「えのきづさ…」
さっき自分で廊下に引きずり出した布団の上で振り返るのと同時に部屋のふすまを思いっきり閉められた。目が慣れない闇の中、益田は半端に手を差し出したまま閉ざされたふすまを見ていたが、ため息をついて浴衣を直しながら布団に横になった。
「…」
虫の声と、かすかに波の音が聞こえて来る闇の中で部屋の様子を伺ったが、ウンともスンとも言わない。押されたら引くくせに、気配がないならないで猛烈に気になる。そして気にすればするほど、見るものも聞くものもない闇の中ではどうしてもさっきまでの事が蘇って来る。
「〜〜〜」
朝までそれで悶絶していた益田は、榎木津の質問の答えにもその意味にも気付く事はなかった。